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ヨハネの福音書13章

ヨハネの福音書13章
=本章の内容=

❶ユダの裏切り(弟子の足を洗う)➋シモンへの忠告

=ポイント聖句=

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(11:34)

=黙想の記録=

●銀貨30枚でイエス様を大祭司に売ったユダは「イスカリオテのシモンの子ユダ」と表記されています。「イスカリオテ」とはヘブル語の「ケリヨトの人」という意味があります。このケリヨトは死海東部のペレヤ地域の町と推測され元々モアブ人の地でした。他の弟子たちはガリラヤ出身ですが、ユダだけは彼らとは所縁(ゆかり)もない人物でした。彼がどのタイミングでイエス様一行に加わったのか他の弟子の様な聖書の記述は一切ありません。ところでユダの裏切り行為について今でもいくつかの疑問が解明されていません。「第一に、ユダはいつから裏切る思いを持ち始めたのか。第二に、裏切りの動機は何か。第三に、イエス様が裏切りを予知していたのなら、なぜ回避できなかったのか。」という点です。聖書を読む限り、どのタイミングであったかは分かりません。私個人としては、この3つの答えを以下の様に考えています。最初から、ユダも他の弟子たち同様、「イエス様がイスラエル復興のメシヤとなった暁には、重臣として重用されるだろう。」と言う下心が十分あったと思います。山上の説教などを聞いているうちに、「イエスにはイスラエル復興への意思なし。」と断定していったのではないでしょうか。それでも、イエス一行に加わっていれば、当分くいっぱぐれはなく、これと言った労働も強いられず、イエスの弟子である優越感もくすぐられてきたことは、彼にとって快適な生活だったのに相違ないのです。しかし、これも長くは続かないと悟ったのは、徐々に見え隠れしてきた、宗教指導者への弱腰。そして、最初の過ぎ越しで「宮清め」を行うもその後の発展性が見えないこと。更に、宗教指導者の憎悪が高まることに反比例し、イエス様の活動に政治色が全く見えなくなってきたこと。山上の説教も、人々の病気の癒しも、「自分の描いてきたメシヤ像とはだいぶ異なった方向にイエスが向かっている」ことを感じざるを得なかったのです。イエス様一行の会計を預かり、そこに集まる活動資金からの横領行為が始めて行きます。「イエス亡き後の当面の生活費」と計算したからではないでしょうか。「銀貨30枚」は、十字架で抹殺されることを予期し、その後の逃走資金とするのと同時に、宗教指導者へ「わが身の安全を保障する」為の手付金だったのではないでしょうか。

●イエス様が弟子を選んだ時にはすでにユダの運命をご承知だったはずです。しかし、たとえこのような人物であったとしても、最後の最後まで、ユダのことを心底心配され、悔い改めのチャンスをご用意したのが、最後の晩餐だったように思えてなりません。他の十一弟子だって、イエス様の捕縛以降、蜘蛛の子を散らすように逃亡する姿は、ユダと何ら差異がありません。

●ここにイエス様の神の子としての神性が提示されています。アダムとイブの失楽園から始まり、人類の裏切り行為は甚だしく限りがありませんでした。にも関わらず、父なる神様はどこまでも忍耐されたのです。同様にイエス様は神の子としての神性である「限りのない忍耐と赦し」を、このユダの一件でもお示しになったと思われるのです。

●ユダの裏切りがいよいよ起動する最中に、イエス様は弟子たちの足を洗うという不思議な行為を始めます。これは、過ぎ越しの祭りとは全く無関係です。しかもこれは奴隷が主人や客人を接待する行為です。丁寧に丁寧に一人一人時間をかけて洗っていくのです。桶の水を替える作業も、足についた水をぬぐい取るのも楽なことではありません。イエス様はここで、神の子の神性である「謙遜と惜しみない愛」を示されたと言えましょう。裏切者のユダに対してもです。これらの深く広いお心を神様がお持ちでなければ、当の昔に人類は滅ぼし尽くされていたことでしょう。

●余談になりますが、「ユダの接吻」は絵画になるほど有名です。また近年では映画『ゴッドファーザー PART II』でも見かけた「死の口づけ」と言って、イタリアのマフィアが裏切り者を処刑する際、この行動を真似るという風習があるほどでした。これがサタンの性格です。サタンの手にかかれば、崇高な行為も最悪な行為と変化させることができるのです。ユダによる「死の口づけ」は、サタンから発せられた「イエスの死刑宣告」だったのです。