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ヨハネの福音書12章

ヨハネの福音書12章
=本章の内容=

➊マリヤの香油注ぎ➋エルサレム入城➌一粒の麦➍天からの声と人々の反応

=ポイント聖句=

父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。(12:28~30)

=黙想の記録=

●マタイ・マルコ・ヨハネの3福音書がこぞってマリヤの香油注ぎを取り上げています。ナルドは甘松香(かんしょうこ)と言ってヒマラヤ地方原産の多年草を乾燥して作られたものです。1リトラの香油(新改訳2017版)とありますが、これは約326グラムです。これはコーラの最小ボトルの約1本程度です。少しカビ臭い香りが死の旅路に向かう人への手向けに使用され、遺体の全面に塗られていました。たったこれだけで300デナリというのですから驚きです。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」とユダが言ったのも無理はないのです。しかしユダの言葉には「私が売るのなら」という条件がついていたのです。本来取るべきではない、仲介料を販売時に横領しようとしていたことが伺えてしまうのです。マリヤの行為の崇高さを値踏みするユダの心の闇を見るのです。

●エルサレム入城と共に、いよいよ最後の一週間に突入しました。4福音書全てがこの事件を取り上げています。他の福音書が淡々と表現する中、ヨハネは人々が何を叫んでいたかにフォーカスしています。イエス様復活の1週間前の日曜日のことでした。入城途上で人々が地面に敷いた植物は「棕櫚の木=ナツメヤシ」です。「ナツメヤシ」は、旧約聖書の創世記にでてくる「いのちの木」をあらわす植物として取り扱われています。エルサレム入城を「いのちの木」で祝福したことを通して、「入城した者が待望のメシヤである」との承認をしたことになるのです。ダビデもソロモンもエルサレムに家畜に乗って入城しています。ダビデは驢馬(ろば)、ソロモンは騾馬(らば)、そしてイエス様は驢馬の子だったのです。驢馬は耐久力のある家畜であり軍馬です。騾馬は驢馬と馬の混血種で繁殖はできません。したがって大変高価です。「驢馬の子に乗って入城」したことの意味は、驢馬の子が軍馬になれないことから、乗る者が「平和の君」を意味していることになります。さらに、驢馬の子に乗った場合、イエス様は群衆の目線より低くなることから「謙遜」も意味しています。

●ベツサイダは、異邦人が多くいる地域です。イエス様は「ギリシャ人がイエス様に謁見を望み出たことが、救いの仕上げ」にスイッチオンされたタイミングと見なすのです。預言されてきたように「救い」はユダヤ人だけではなく全世界の人々に広がっていくことをこの出会いが証明したからです。

●イエス様の祈りに応え父なる神様のお声がかかります。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」これはイエス様にとっては「突撃ラッパ」でした。最大の戦地「十字架」に向かう前のラッパです。ところが弟子も民衆もこれを単なる自然現象としかとらえることができなかったのです。イエス様の並々ならぬご決意と弟子たちに残した最後の言葉を聞いても無頓着だったことが伺えます。しかし、しるしを伴わないけれどもイエス様の気迫に満ちた言動から、指導者の中にもイエス様をメシヤと信じる者が多数出てきたのです。同じ条件下にあっても「気迫」を読み取れる人と読み取れない人がいたのです。

●「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。」で使われた「命令」の内容が「永遠のいのちを供給する手段が十字架である」ことを再度宣言なさったところです。