ヨハネの福音書11章

ヨハネの福音書11章
=本章の内容=
➊ラザロの蘇生➋カヤパの提案
=ポイント聖句=イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(11:25)
=黙想の記録=●イエス様の「甦り」は、この世の肉を纏(まと)っていない新しいお姿であるのに対して、ラザロの場合は、この世の肉体に戻ったと言うことで敢えて「蘇生」と言う言葉を使うことにしました。
●ここに登場するラザロはもちろんルカ16章のラザロとは別人です。「ラザロ」は「エリエゼル」のギリシャ語表記です。旧約聖書のエリエゼルは、創世記15・18章に登場するアブラハムの親戚で後にイサクの後見人となる人物です。もう一人は、モーセの次男の名前でもあります。その他にも何度か登場するので、一般的な名前の様です。エリエゼルは「神は我が助け」との意味があります。
●人間が死ぬと死体現象と呼ばれる過程をたどります。
①「死斑」心臓が停止した後、静脈にある血液が溜まってきます。この時の血液の色が皮膚を通して見えるのが死斑です。死後20分から始まります。
②「死後硬直」は筋肉が硬直する現象で、死後2時間で始まり、20時間後にMAXになります。
③「腐敗」遺体の腐敗は消化器系である胃や腸から始まり、死後1時間内外で腸内細菌の増殖が起こります。その時腐敗ガスが全身を膨らましていきます。現在の様にドライアイスでこの腐敗を防げば死後3日くらいは原型をとどめることがかろうじてできます。古来葬儀を急ぐのは死の直後から始まる死体現象で、故人の顔を直視できなくなったり、腐乱臭が耐え難いものになるからなのです。中近東地域には、犯罪者は例外として、火葬の習慣はありません。このため、ラザロが死んで4日も経過しているわけですから、墓を暴けば強烈な腐乱臭が発生するのは当然なことです。ゲヘナはエルサレム郊外に実際に存在した犯罪者の遺体焼却場です。人々はそこでの光景を否が応でも見なければならない時があり、「死者は醜くなる」ことをイメージさせるのです。
●後期ガリラヤ伝道の最中に「キリストの死と復活」についてイエス様自らが言明しているのをこの人たちも聞いており、またナインのやもめの息子や会堂管理者ヤイロの娘の蘇生も聞き及んでいるはずです。さらに旧約の預言者も死者を蘇生させたということを知っていたので、マリヤもマルタもイエス様のその力を発揮してくれると期待していたのです。しかしここで蘇生した人々は死の直後の蘇生であり、ラザロの様に4日も過ぎた腐乱している状態ではなかったのです。4日過ぎれば、日本のある地域で言う所の「精進落し」という宴会さへも終了しています。「何も今更面倒なことをするな」という思いが漂っていたのです。
●「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。(11:24)」の言葉は間違えではありません。しかし、彼女が想像していたのは、あくまでも「蘇生」であって「甦り」ではなかったのです。この出来事以前に、せっかく「金持とラザロのたとえ」で、分かりやすく死後の世界を説明しているにも拘わらず、弟子たちもこの女性たちも含め、死後の世界は単なる「おとぎ話」としか受け取れなかったのです。イエス様の涙は何重もの意味があります。その一つが、「死後の世界」を説明しても、それを信じることのできない人々の様子を哀れまれたことでもあるのです。私達はこの世の肉体ではなく、神の国の完全な体で甦ることを忘れてはなりません。なぜなら神の子イエス様の罪・汚れの一切ない「新しいいのち」が私たちに注がれるからなのです
●ラザロ以外の蘇生は「死んでいなかった人間を治癒しただけ」との屁理屈が成り立つのですが、ラザロの蘇生は次元が違います。この事件が決定打となり、イエス抹殺計画が本格化します。とても奇異に思えませんか?死者を蘇生させるほどの力は本物のメシヤでなければありえないはずです。この後に及んでもカヤパを始めとする宗教指導者はメシヤが目の前にいること信じることができなかったのです。サタンの常套手段は「欲望と言う名の目隠し」です。