ヨハネの福音書10章

ヨハネの福音書10章
=本章の内容=
❶「わたしは門です」➋「わたしは良い牧者です」
=ポイント聖句=「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(10:18)
=黙想の記録=●ヨハネの福音書の読者にとって、「わたしは~である」の言い回しは、神の子の神性を理解しやすくまた覚えやすい表現方法の筈です。ヨハネは、本福音書で7回にわたってこの言い回しを使っています。9章では「わたしは世の光である」との文を残し、サタンに支配される闇の世に燦然(さんぜん)と輝く光なる方としてイエス様を紹介しています。本章では「わたしは門です」と「わたしは、良い牧者です」とい二つの言い回しを残しています。いずれも牧羊に関するものです。牧羊は当時イスラエルの広範囲で行われていたものです。羊は絨毯の材料となる羊毛や毛皮として、さらに良質のたんぱく源としての乳や肉や脂肪を摂取するために欠かすことのできない家畜でした。羊は穏やかで従順な性格をしている一方で、警戒心が強く臆病です。 野生でも、「1頭を捕まえるより100頭を捕まえる方が楽」といわれるほど群居性が高いのも特徴です。 この性格を利用して、安心感を与えることで非常になつきやすくなるため、家畜化するのに適しているとされています。イスラエルが都市化してくると、分業化が進み、「牧者」という職を作り出します。ところが牧者は連日作業で容易に休みのとれない職業なので、「動物に直接触れる不浄な者達。安息日さへ守れない、信仰心が薄い者達」との扱いを受けていました。イエス様が「わたしは良い牧者」ですとわざわざ「牧者」を使ってご自分の神性をご説明なさったのにはどうも深い意味が隠されているようです。
●「わたしは羊の門です」と語られましたが、ブッシュなどで囲まれた牧羊スペースの入り口に門として座わり、夜行性の猛獣たちが羊を襲ってくるのを身を挺(てい)して守っている様子そのものなのです。猛獣と対峙するとき、今の様に拳銃があるわけではありません。また軍人ではありませんから立派な剣があるわけでもありません。素手でしかも粗末な刃物で戦わなければありません。当然わが身を傷つけられることになります。命を落としてしまいそうな重傷になるかもしれません。それでも牧者は敵と戦うのです。敵を前にして逃げ出す者達とは、暗にパリサイ人たちを非難することばです。彼らは羊のいのちなど少しも気にならないのです。ここで登場する羊は野生種ではありません。つまり、サタンの側にいるものではなく、明らかにイエス様の側にいることがこの場合の条件です。サタンの側にいた人々でも、イエス様を信じることで門の内側に入ることができます。
●「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」とは自ら十字架に架かり贖罪の子羊となってくださることを預言したものです。神の子を信じるとは「十字架が私の罪の為のものである」ことを認めるところからスタートします。ただし十字架刑は終着点ではなく、出発地点です。教会と言う囲いの羊が真に役立つ者達となるために、牧者は命がけで羊を牧草地や水飲み場に引き連れて行かなければなりません。同様にイエス様の後に来られる「聖霊なる神」はイエス様が天に召されたのち、教会を命がけで守り成長させてくださることをも教えておられます。イスラエルの民を羊、自らを牧者と呼ぶアイデアはもちろんオリジナルではなく詩篇23篇の応用です。み言葉を逸脱したことをイエス様は決して行わないのです。
●詩篇82編のアサフの賛歌を引用し、イエス様は古代イスラエルでも、「神々の様に振舞う者達」の存在があったことを説明しました。「お前たちは神々だ」と当時の宗教指導者を揶揄した言葉が記載されていたのです。イエス様の当時の指導者も自分の言葉を権威付け、ご託宣を伝えるかのような振る舞いをして民衆を騙しては搾取に奔走していたのです。「わたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。」は、いつも詭弁を弄することを生業とする指導者たちに対し強烈なパンチとなりました。イエス様の様に次々に奇跡を起こす人物はかつても今も存在しないからです。イエス様の反論はとても理路整然とし説得力のあるものでした。聖書を諳んじるだけの指導者ではなく聖書の神髄を知り抜くお方だからです。