ヨハネの福音書9章

ヨハネの福音書9章
=本章の内容=

➊盲人の癒しと安息日

=ポイント聖句=

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(9:1~3)

=黙想の記録=

●8・9章は、「社会的弱者」に対するイエス様の対応の様子を説明すると同時に、当時の宗教指導者が、モーセ五書(トーラー)の根幹に流れる神様の御心を決して汲みとることのない様子を露呈しています。前述しましたが、モーセ五書には「社会的弱者の救済をユダヤ国民の美徳とすべし」とのメッセージが言明されています。ところが、本章でも、彼らには視覚障害者自身への同情どころか、興味の一欠けらもないことが分かってしまいます。それどころか、この障害者を利用し、安息日問題をぶり返し、イエス様を何とか陥れようとするのです。

●現代教会にもこの様子を見かけることがあります。著名(?)な方々を多額な出演料を払って招待するチャリティーイベントはその最たるものです。収益金の全額を社会福祉の為に献金したことをもって社会的弱者に深く関心を寄せているジェスチャーは得意なのですが、教会も信徒も、普段は全く関心がないばかりか接触交流を避ける様にすることもあるのです。また説教の中で「社会的弱者の為に尽力してきた基督者」をさかんに紹介するものの、自らはなんの活動もしないのです。正にここに登場する宗教指導者と同類なのです。

●先天性の視覚障害者には、色も形も認識できません。しかし先天性の場合は何も見えないことが当たり前のことですから、幼児期には苦痛と感じることもなく天真爛漫に育つことができたでしょう。ところが、障害を持つと言うことは本人もまた家族にもその後過酷な運命が待ち受けているのです。当時のユダヤの悪しき風習では、こうした障害者が家族にいるだけで「この家族は神から見捨てられている」などと、白眼視するのです。思春期になる頃には「私は普通でない。そればかりか自分の存在が家族を不幸にする。」との自意識が彼を悩まします。ところがさらに、一定年齢を過ぎると家族から引き離されるのです。理解ある家族ならその後も生活支援を受けることができるでしょう。ところが中には被害者意識を持つ家族もいるはずです。そんな場合は、生活手段がない場合は、障害者本人は自ずと物乞いとなるしかないという運命を辿るのです。強烈な疎外感や屈辱を経験する時期が必ずあるのです。しかし人一倍の艱難辛苦を味わった者だからこそ身につく心の目があるのです。

●パリサイ人と視覚障害者のやりとりは、あまりにも滑稽です。パリサイ人が問題視したのは、イエス様が行った「安息日の医療行為」で、「目が見える奇跡」の方ではなかったのです。「イエスがエルサレムで指導権を握ってしまうことは、自分たちの既得権を失うことを意味し、明日の生活にも支障をきたす。」などの緊張感があり、びくびくしている様子が伺えます。一方この視覚障害だった男性は、物おじせず、大変肝っ玉が据わっているとは思いませんか。さらに彼の方が、両目が開いているパリサイ人に比べ、より聖書理解ができているとは思えませんか。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」の言葉は、どちらが聖書を解き明かしているのか見間違えるほどです。自らが経験した神の言葉(イザヤ35:5)だからこそ強い本物の確信が持てるのです。

●聖書を理解するとは「神様の御心に触れること」であって、知識が増えることとは大きくかけ離れています。神様への求道心は、救いの為にだけ必要なのではなく、基督者として信仰生活を送るためにも必須です。目が癒された男性は目からの情報は一切入りませんが、それを補填してあまりある情報をその他の五感と心の目で、メシヤを見つけることができていたのです。