ヨハネの福音書8章

ヨハネの福音書8章
=本章の内容=
[なるほどThe Bible]棒切れでなく指で書いた文字?
➊姦淫の女性➋光であるキリスト➌地上生涯の目的➍アブラハムの子孫
=ポイント聖句=イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(8:10~11)
=黙想の記録=●警察は治安維持と犯罪防止が任務の筈です。当時は、神殿に関する冒涜行為やユダヤ律法への犯罪行為を取り締まるのは「神殿警察」と呼ばれている人々でレビ族から選出されました。地獄の沙汰も金次第で、現代同様、富裕層が宗教上の罪を犯しても握りつぶされてしまうことも多々ありました。重犯罪の場合や反逆罪を取り締まるのは、総督直属のローマ兵でした。
●ところで新旧通して実際に石打刑によって殺害された事例はあるのですが、かろうじて名前が出てくるのは、ナボテ(1列王21章)とステパノ(使徒7章)です。ナボテはイゼベルの陰謀によって、ステパノは宗教指導者の陰謀によって殺害されています。モーセの十戒では「姦淫してはならない」と命じられています。律法の規定では姦淫の罪が定められており、処女でない未婚女性、男女の不倫、男性同性愛は石打による死刑となっています。この規定で言うなら、ダビデ王とバテシェバは死刑となりますが免れてます。また4章に登場するサマリヤの女性も処刑されてはいません。
●当時のエルサレムには、生活苦の為に遊女になって家族を支える女性もいたようです。当時、遊女(娼婦)はエルサレムにも数多く存在(マタイ21章)していたのです。江戸幕府によって公認されていた吉原遊郭のような場所があったかは定かではありません。イエス様が「あなたがたのうちで罪のない者が・・・」と指摘された「罪」とは隠れて遊女を買い漁ってっていたことではないかと、推測できるのです。また年長者たちからその場を去っていったことから察するに年に比例して女性を買っていたのではと思われるのです。遊女との関係を富者のステイタスの様に語っていた者もいるかもしれません。このように律法を重んずるはずの指導者がすでに姦淫の罪を犯しているのです。生活苦にあえぐ人々を救済するのが律法の大きな骨子でもあるはずですが、当時の宗教指導者は私服を肥やすことに夢中で、遊女の様な生活困窮者など眼中にはなかったのです。こうした意味で言うならこの当時の宗教指導者は二重の罪を犯していることになります。
●ところで、現代の教会でもこれ似た現象が起きています。大きなコンファランスに招かれるような教職者が大会最中に女性信徒を自分の部屋に呼び事に至ると言う話が現実に起こっています。
●あるグループでは、未信者と結婚した兄弟姉妹や性的な問題を起こした兄弟姉妹を除名したままにし、交わりの回復を絶対許さないという事案をよく見かけます。不倫やⅮⅤを起した夫婦に積極的に離婚をアドバイスするという事案もあります。教会秩序と言う名のもとにどれだけの兄弟姉妹が切り捨てられていることでしょう。こうしたグループに限って信徒は中産階級以上で、障害者を始め不便な生活を強いられている人々には全く関心が無いのです。また「伝道優先!社会貢献など不要!」と言って憚らないのです。これらもまた、いにしえの宗教指導者となんら差異が無いでは有りませんか。私は個人的に、こうしたグループの方々に、「神の愛」を語ってもらいたくありません。まさにここに登場する宗教指導者と同様です。
●後半部分は「闇を照らす光」となられる神の御子についての説明です。自から、「豪奢で光り輝くような生活」をしていた宗教指導者は人々を闇で覆うことはあっても、人を照らす光には到底なれなかったのです。「私たちの父アブラハム」に込められているのはユダヤ人の血統のことで、「信仰の父」としての存在ではありません。天の御国を仰ぎ見てこの地上を寄留者の様に歩むことが信仰生活でしたが、宗教指導者はこの世に根を張り、この世の実を成らせることに魅力を感じていたのです。こんな人物たちに、イエス様が神の子としてこの地上の生涯を十字架によって完結するなど思いもつかないことだったのです。結局彼らはこの世の君サタンの思うがままに動き、イエス様の偉大な使命を覆そうとする、「ただの操り人形」にすぎなかったのです。