ヨハネの福音書7章

ヨハネの福音書7章
=本章の内容=
❶イエス様との対立(イエスの兄弟たち・律法学者パリサイ人)❷役人議員とニコデモ
=ポイント聖句=さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(7:37~38)
=黙想の記録=●本章は、イエス様一行が最後のユダヤとペレヤ伝道に出かけた時の話です。イエス様の実の兄弟たちは母マリヤ同様、イエス様の行く末を心配するあまり。「公の場」で「自分を世に現しなさい」助言するのです。イエス様を王として担ぎ上げれば、ユダヤ王国の国王の肉親となれる。そうなれば、自分たちも豊かな将来が約束されるのは当然と思う、浅ましい人間の欲が見て取れます。「虎の威を借りる狐」とは昔のことわざですが、残念ながら、私達基督者でも、こんな誘惑に駆られることがあるのです。イエス様はマリヤの時と同様「わたしの時はまだ来ていない」と答えるのです。人間のタイミングで神様のご計画が動き出すことはありえないのです。
●しかし、イエス様はこの後、隠密裏にエルサレムに上京するのですが、これはエルサレム入城のことではありません。仮庵の祭りは年によって異なりますが、9・10月に行われるユダヤ最大の祭りで8日間続きます。仮庵の祭りの6か月後に過ぎ越しの祭りが行われ、その時にイエス様は、エルサレムで十字架刑に付けられるのです。仮庵の祭りの中ごろイエス様は説教をなさいますが、正規に学んだ事実がないのに、深い学びをされることに、律法の教師たちは目を見張ります。さらに、いつもの通り、宗教指導者が的外れなことを言ってくるのです。「奇跡は悪霊のなせる業」とか、「割礼や安息日」論争をまたぶり返すのです。イエス様の奇跡の意義もまたモーセの律法もその深い意味を理解しようともしなかったのです。
●祭りの最後にイエス様がなさった説教は、イザヤ1:3、41:18、ゼカリヤ13:1で預言されている「いのちの水」を沸き立たせる「泉」がご自分の受難で成就することを宣べられたものです。またエレミヤ2:13にあるつまり壊れた水溜を掘り続けてきたユダヤ人の空しい努力を指摘された物です。
●ところが、救いの真理を教えているにも拘わらず、イエス様の出生の場をこき下ろすのです。ヨハネはマタイやルカの様にダビデの末裔であることの系図を記しませんでした。それどころか、役人を利用してイエス様の捕縛の理由を見つけさせるのですが、全て空振りに終わるばかりか、イエス様の言動から只者ではないことを発見してしまうのです。ここで登場する役人とは、王家の職員を意味しています。自ら手を汚すことを極力避けている、トラの威を借りた狐、つまりサドカイ人たちが王家の役人を派遣させたわけです。ヨハネは本章にニコデモを登場させますが、イエス様に対して正当な判断を下す様にと他の議員に媚びることなく堂々と進言するのです。私達がこの個所を読むことで、息苦しくなる悪の台頭を感じさせる中でも、一時の清涼感を味わうことができるのです。ニコデモは確かに神様が準備された配材です。ニコデモには、イエス様の弟子たちや肉親の様な浅ましい人間の性は見えないのです。