ヨハネの福音書6章

➊食べ物の配給➋湖の上を歩く➌いのちのパンです➍弟子たちの離反
=ポイント聖句=そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」(6:65)
=黙想の記録=●預言者エリシャが行った多くの奇跡にはイエス様の奇跡との類似点が沢山あります。例を挙げれば、「エリコの質の悪い水を良い水に変える。百人の旅人にパンを配給したところパンが余った。死んだ子供の蘇生。ナアマンのライ病を癒す」はイエス様の「カナでの奇跡。王家の役人の子供の蘇生。ライ病人の癒し。そして本章前半のパンの配給の奇跡」に酷似しています。人々はこの一連の奇跡から、イエス様を大預言者と確信させ、国家再建の為の王に担ぎ上げようとしたのです。イエス様のところに集まった人々は「平和で腹が満たされる生活」が実現されれば、それ以上の期待はしていないのです。それが彼らの願う幸福でした。イエス様が叱責された通りです。
●このパンの奇跡は弟子たちに大興奮と期待を膨らませる結果となるのです。復興イスラエルの重鎮のポストを約束されるかのような錯覚が沸き上がるのです。彼らをクールダウンさせるために起きたのが湖での奇跡です。この時イエス様は敢えて同船されませんでした。暴風に翻弄されよもや転覆し、溺れ死んでしまう危機が迫っていました。来る王国の重鎮の話どころではないのです。彼らの脳裏には「こんなところで犬死するなんて。なんていう運命なんだ。」という諦めの心はあっても、主に助けを求める心の余裕がなかったのです。彼らには「救い主」としての姿は胡散霧消していたのです。イエス様を実体のない幽霊と思ったのも、その証拠です。イエス様が同船されると、自然の脅威が収まるのです。弟子たちはこの事件から、他の民衆とはワンステップ上の信仰に進むのですが、この世の誘惑は解消していないのです。
●後半部分は、民衆が教え込まれた間違えたメシヤ像を払拭し、救い主としてのメシヤを説く場面です。パンの奇跡が天与の物であり、イエス様が神の子であることを証明するための物であったにも拘わらず、民衆は、その神の声を聴こうとしなかったのです。つまり、メシヤとは、彼らにとって、自分の都合に合わせて働く「御利益宗教の神」そのものだったのです。「モーセが率いた第一世代のユダヤ人がカナンに行けず荒野で倒れてしまった原因はなにか。」を振り返る余裕さへなかったのです。「永遠のいのち」に対する思いなどみじんも必要としていなかったことが、この場面からうかがえるのです。モーセが与えた律法も、イスラエルを神に立ち帰らせようとした預言者の言葉も、メシヤのご性格やご計画を知るためのものであったにも拘わらず、宗教指導者たちから始めユダヤ人すべてが、真のメシヤ像を見いだせずにいたのです。
●多くの弟子が、イエス様の元から離反していきます。彼らもまた民衆と同じく、メシヤは「御利益宗教の神」程度にしか思えなかったのです。私達はこの場面にサタンの暗躍を見ることができるのです。それは、イエス様の絶大な人気に乗じ、人々の心に「民衆の期待に沿えないメシヤは真のメシヤではない」と植え付けそれに成功したこと。さらに、サタンは、イエス様がこれから構築されようとしていた「教会」の破壊ができたこと。サタンは主なる神様の計画に王手を取れたと思いほくそ笑んでいるのです。
●現代の教会でのサタンの暗躍の様子は、本章の時と酷似しています。基督者の信仰心が「御利益」に傾いており、「この世での幸福をもたらすことのできない神は神ではない」という教えが吹聴されているのを見るからです。この世に「神の国の建設」は実現できません。