ヨハネの福音書5章

ヨハネの福音書5章
=本章の内容=
➊足萎えの癒しと安息父論争➋神の子イエスといのち➌モーセの書といのち
=ポイント聖句=しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。(5:13)
=黙想の記録=●4章の後半に王室役人の息子の癒しがあり、本章前半に足萎えの癒しが置かれています。この両者を対照させると変わった光景が見えてくるのではないでしょうか。役人にとって息子の死に至る病は突然の不幸な出来事でした。しかし、それ以前は、この役人もその息子も何不自由のない生活を送って来ました。子供の為にはプライドも職責も忘れ、命がけで懇願する父親がいました。一方、足萎えの男性は38年間の長きに渡りこの不幸な病に悩まされ続けてきました。またこの場から動くことができず、着の身着のままで、日に一度あるかないかの配給される食べ物を取るしかない極貧の生活でした。家族はおろか友人ですら彼を見限っているのです。この二つの事件から私たちは「不幸」の定義を学べるのです。不幸は突発的に起こる場合があり、不幸は時の長さが引き起こす場合がありますが、どちらも、何かを失い、悲しみや痛みを覚えさせるものです。
●役人はイエス様の力を信じて息子の為に懇願し続けるのですが、足萎えは端からイエス様に信頼していません。不幸の長さは、その人物を卑屈にし、被害妄想を引き起こし、憤懣をだれかれとなくぶちまけ、そして絶望させていくものです。この男性もその後多分にもれません。どちらの癒しもいのちの根源がイエス様にあることを示す奇跡でしたが、正しく信仰を持ったのは、子供に代わって懇願するあの役人でした。足萎えの男性は、わが身の不幸さへ取り除かれればそれで良いのです。自分の不幸の原因を取り除いてくれた神の子への礼もなければ、知ろうとする気もなかったのです。しかし、周りにいたユダヤ人指導者が躍起になっているところからイエス様が只者ではなかったことを悟る程度だったのです。ここに彼の人生の大きな過ちがあり罪深さがあったのです。この状況は、パリサイ人やサドカイ人も同様であったわけです。この男性はこともあろうにその後指導者にイエス様の名を伝えてしまうわけですが、癒されてもなお、この世の権威にへつらおうとするのです。残念ながら彼には信仰が芽生えることがなかったのです。この個所でヨハネは、たとえ神が関与する超自然現象を見せつけられても、それが信仰に繋がらなければ全く意味がないことを諭してるのです。
●本章中間にあるのは、父なる神と神の子との綿密な関連性です。神の子は父なる神が与えた任務のみを遂行するために生きるのです。それは神の子羊として罪を贖うために十字架で死に、それが神のご意志であったことを証明するため甦るという大業のことなのです。
●モーセの書は創世記・出エジプト記・民数記・レビ記・申命記のことです。私個人としては、著者はモーセ一人であると信じています。面白い史実ですが、モーセ五書をトーラーと呼びますが、これはプトレマイオス2世の命で、ユダヤ教の祭司族とされるレビ族の書記官たちがギリシャ語に翻訳した時の題名とされています。サドカイ派はこの五書のみを正典としていましたが、パリサイ派は、この五書以外の口伝による書物も含めて信奉していました。このグループの人間とって、これらは戒律であり、いのちの通う使い方をしてこなかったのです。極端な言い方をすれば、彼らにとってモーセ五書は飯の種に過ぎなかったのです。モーセ五書のいたるところに、イスラエルを忍耐を持ち、さらに愛しんでおられる神を見つけ出すことができるのに、彼らはそれをわざと見過ごすのです。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」とは、足萎えにだけではなく、パリサイ人やサドカイ人にも投げかけられている警告の言葉だったのです。