ヨハネの福音書4章
ヨハネの福音書4章
=本章の内容=
➊サマリヤの女➋王室の役人の息子
=ポイント聖句=イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)
=黙想の記録=●今回はサマリヤの女性の話に絞って黙想させていただきます
●3章のニコデモと本章に登場するサマリヤの女性は実に好対照の人たちです。著者ヨハネの意図を感じさせます。ニコデモは生粋のユダヤ人、良家の出身、パリサイ派指導者、サンヘドリン議員。一方サマリヤの女性は、異邦人との混血人種、結婚に失敗してきた人物、他宗教との混合宗教信者、婚姻関係のない男性と同棲中。つまり読者に両極端の人物を提示し、「誰にでも公平にもたらされるもの」=「永遠のいのち」が与えられることを暗示させるものです。当時、婚姻関係のない者同士が同棲するのは、ユダヤ教では重罪に問われるところです。ところがサマリヤは、他民族との混血人種であるため、異教文化が根強く影響していた地域でした。このため、ユダヤ人には受け入れ難い不道徳も許容されていたのです。
●さらに、3章のニコデモは、自らがイエス様を訪問したのに対して、サマリヤの女性に会うために、イエス様はわざわざ迂回して来られたのです。サマリヤはユダヤから見捨てられた地域です。犬猿の仲であり、双方に紛争はあっても、交流などあるはずもないのです。イエス様のうわさなど届いているはずもありません。世を憚って(はばかって)生きているこの女性に、神の子はどんな用があったというのでしょう。ヨハネはこの女性とイエス様とのやり取りをニコデモ同様に詳細に記しています。ニコデモには教理など一切語ることのなかったイエス様は、この女性には、ユダヤとサマリヤの置かれた立場や、礼拝というレベルの高い内容まで語っているのです。
●ニコデモには、彼の実直な求道心に応えながらイエス様が語ったのに対して、初めから敵愾心むき出しの言わばヤンキー言葉で突っかかる女性に対し、実に寛容なお心をもって接しておられたイエス様の対応も好対照です。「わたしに水を飲ませてください。」の第一声はイエス様のこの女性への渾身の愛情が籠っているとは思えませんか。差別意識の強いユダヤ人が、喉の渇きを訴えて、言わば命乞いを始めてきたのです。ユダヤ人に対して卑屈な思いしかもっていなかったこの女性は、この時とばかりに高飛車な口調になってきます。「あんたは、くむ物を持ってないよね。この井戸は深いんだよ。汲んで来られる?その生ける水とやらを持ってきてごらんよ。飲んであげるから。」小難しいことを言う高飛車なユダヤ人を「してやったり」とばかりに、遣り込めようとする彼女の思いが感じられます。ところで世間話をして彼女の心を和らげてからでも良いところを、フルスロットルで教理を語ったのは何故でしょうか。実はこれにもイエス様のこの女性に対する配慮であったことをお感じになれるでしょうか。イエス様のこの言葉は、ニコデモに話して丁度良いくらいの教理です。ユダヤ人も混血人種の隔てなく、女性軽視も、その人の過去も影響されないイエス様の広く深い心を提示しようという、救いの教への伏線なのです。彼女の核心部分に迫っていくのに、差別や区別した様な切り出し方は必要なかったのです。
●彼女の方は厄介者が来たとばかりにさらに先祖の話を持ち出して、イエス様との関りを早く立ちたいと願い、(奇跡でも起こさない限り水を得ることはあるまい)との苛立った気持ちから、「その水を下さい」と切り出したのです。ところが、直後イエス様は「あなたの夫をここに呼んできなさい。」この一言は、「私じゃ話が通じないから、男を呼んで来いというわけね。何でこの人は私に絡んでくるわけ?」との反感をもっと駆り立ててしまいますが、それでも彼女は怒りをぐっと堪えてその場をやり過ごそうとして「私には夫なんかいませんよ」と苦しい抗弁をするのです。しかし、この言葉を皮切りに彼女の核心部分に迫っていきます。イエス様は彼女のぶっきらぼうな告白に対し「あなたの言うことは正しい」と答えます。「正しい」訳された単語は、ギリシャ語でkalos(カロウス)。「正しい」と言う意味の他に「美しい。称賛に値する。気高い。非難の余地がない」という意味もあるのです。彼女の過去の生活や現在進行形の大罪を非難してくるのではないかと彼女はびくびくしていたのです。しかし、彼女の硬い心の戸を少しばかり開いたのは紛れもなくイエス様のこの一言です。イエス様が自分の人生を理解しようとしている事がズシンと心に届いた瞬間でした。それでも彼女は礼拝論議を持ち出して、また逃げ出そうともがくのですが、イエス様はここで、「あなたがたが父を礼拝するのはこの山でもなくエルサレムでもない」という重要な真理を伝えるのです。第一に、「主なる神は怒りの神裁きを下す神ではなく、あなたの保護者。あなたにとって父なる神である」と言う真理。第二に「神はあなたをご自分の礼拝者として必要としている」と言う真理です。世を儚んでもいた彼女は「私の人生は無駄の連続。目的の無い苦痛だけが残る生活。」と思い込んでいました。その思いに対して、「神の役に立つ者になりなさい」とイエス様は自分を諭してくれたのです。彼女が「メシヤ」を口にするのに以降時間はかかりませんでした。
●この個所を拝読するたびに、私は「伝道とは何か、あるいは何でないのか」が次第に鮮明になってくるのを覚えます。「伝道は議論ではなく、相手を理解し相手の必要を満たすプロセスです。相手を遣り込める作業ではなく、将来の友となる為の努力です。私はそう考えています。