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ヨハネの福音書3章

ヨハネの福音書3章
=本章の内容=

➊ニコデモとの出会い➋神の子の使命➌バプテスマのヨハネとイエス様の関連性

=ポイント聖句=

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。(3:11)

=黙想の記録=

●ヨハネの福音書は概ね最後の一週間にフォーカスしていますが、必要であれば時系列を無視して他の事件等と関連付けることがあります。後半部分にバプテスマのヨハネが出ていますが、最後の一週間ではすでにヨハネは殉教しています。人物も精選して登場させます。2章ではイエス様の母親を登場させますが、そこで言いたかったのは「教会の新しいルール」つまり、血縁者よりさらに深い絆で結ばれる新しい人間関係」だったのです。

●ニコデモが生涯をかけて追及してきた真理ですが、それはニコデモ自身にも理解できていなかったのです。それをイエス様との会話の中で再確認せざるを得なかったのです。イエス様は、歳から言えば、自分の年齢の半分ほどの若造です。ニコデモは、人生経験も知識もはるかに多くを学んできた人物です。しかし、彼はイエス様の公生涯の様子を具(つぶさ)に調べ、その結果驚くべき事実を突きつけられ、求道心が生まれ、自分の職責も顧みず、また命の危険を冒してまでも、心のもやもやを解決に来たのです。「「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」の叱責の言葉にも、彼は砕かれた心をもって応答するのです。

●ニコデモとの対話は「永遠のいのち」「神の国」「新生」つまり「救い」に関する教理の展開に目が行きがちです。もちろんそれも伝えているのですが、ポイント聖句の「わたしたちのあかし」というところをどうも読み過ごしてしまう傾向があるために、ここでヨハネが伝えたかった事の印象が薄くなっているようです。ここで「わたしたち」を「三位一体の神」を指すとお考えの方もいるようですが、私個人は、この「わたしたち」が教会を指しているように思えてなりません。イエス様が如何に教会の地位に心を配っておられるかの証明と思えてくるのです。新生したニコデモの行先は、再び、サンヘドリンや律法学者たちの学会ではないのです。「新しい交わり「教会」がその行先であり、永遠のいのちという強力な絆で結ばれる兄弟姉妹と呼ばれる基督者であることを、イエス様はニコデモに提示しているのです。

●本章に書かれたもう一人の際立つ登場人物はバプテスマのヨハネです。ニコデモ同様に血統も経歴も非の打ちどころのない人物でした。ヨハネの父は大祭司であり、信仰深い母の元で育てられたわけですから、将来を嘱望(しょくぼう)されて当然に人物であったのです。にもかかわらず、自らそれを蹴って、見返りなど一切期待できない荒野の預言者になったのです。親戚の一人として幼少期にはイエス様の竹馬の友であったかもしれないのです。イエス様が神の国の王ならば、当然自分はヨセフの様な宰相となるという期待を持ってもおかしくはないのです。しかし、彼の素晴らしい信仰は、神の子であるイエス様の地上生涯の最大目的が「世の罪を取り除く神の子羊」となることをすでに理解していたことです。自分もその神の赦しを通して救いを経験できることだけに彼は関心を持っていたので、自分の栄枯盛衰に無頓着でいられたのです。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」の言葉は、主の奉仕者全員の覚悟でなければなりません。最後に残る人物が自分であってはならないのです。「主に栄光を帰する」とは、このヨハネの様な態度のことなのです。