ヨハネの福音書1章

ヨハネの福音書1章
=本章の内容=
➊イエス様の神性➋イエス様の証人①バプテスマのヨハネ②弟子たち
=ポイント聖句=その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(1:29)
=黙想の記録=●本書の著者はイエス様の愛弟子のヨハネです。ゼベダイの子でヤコブと兄弟です。最後の晩餐の会場を準備したのがこの二人です。また十字架の刑場にイエス様の母マリヤと共にいました。ペテロ同様、エルサレム教会の指導者でした。伝承では、イエス様の母マリヤと共にエペソに逃げ、後にパトモス島に幽閉され、そこで黙示録を記しました。解放されてからエペソに戻り、そこで最期を向かえたと言われています。十二使徒のうち唯一殉教を免れた人物とされています。
●マタイはユダヤ人向けに、マルコはローマ人向けに、ルカはギリシャ人向けに、そしてヨハネは全世界の人々に向けてそれぞれの福音書を書きました。ホレブ山で、モーセが名を尋ねた時、「私は~ある」と主なる神はお応えになりました。すでに人々が「イエフォバ」と呼んでいたにも拘わらずです。モーセが問いただしたかったのは、「如何なる神か」ということで、「他の神々とどこが違うのか、何をなされる神なのか」ということなのです。それに対して、主なる神様はこの「~」を敢えて応えないことによって、「全能の神」をこの「~」に込めたとは言えないでしょうか?モーセの歩みを通し、私たちはご神性を垣間見ることができました。本書には「私は~である」という記述の中の「~」が書かれた聖句が7か所出てきます。全世界の人により分かりやすく具体的にご神性を説明したものと言えます。また、ヨハネが選んだのは、35の奇跡のうちたったの7つです。つまりその35の奇跡を7つにカテゴリー化し無駄を省いています。さらにその七つの奇跡が「如何なる目的のための奇跡」なのかに説明の重点が置かれているのです。こうした記述の仕方で分かるように、全三書が「記録文」であるのに対して、ヨハネの福音書は「救い」に特化した「説明書」として全編無駄のない計算されつくされた内容になっています。
●第一章で、ヨハネはのっけからフルスピードでイエス様の重要な神性を、「①永遠の存在②創造主③いのちの根源」と三つに分けて説明します。次に、ヨハネは「闇を照らす光」と表現し「信仰とは何か」「救いとは何か」を説明しています。さらに、イエス様の説かれる教えは、「人間の意欲や欲求の産物=宗教」ではなく、「創造主の教える原理=真理」そのものであることを宣言しているのです。主題を先に述べ、後からそれに肉付けしていく様は、ヨハネの生徒として、我々が板書を見ながら講義を受けている感がしてきます。
●後半部分でイエス様の証人を一気に紹介しています。バプテスマのヨハネは、来臨される神の前に立つ「最後の預言者」として紹介されています。以降「主なる神の預言者」は立たされていません。このバプテスマのヨハネが何の証人であったのかは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言う言葉に凝縮されています。「メシヤは為政者ではなく贖い主であること。」「人間の不幸の根源が罪であること。」を宣べた言葉です。
●ヨハネとヤコブは当初バプテスマのヨハネの弟子でしたが、彼に促されるままに、イエス様について行くようになります。アンデレ、シモン・ペテロ、ピリポ、ナタナエル。これらの弟子がイエス様に従っていく様子が記されていますが、最後のナタナエルの時だけは大変詳細に述べているのは何故でしょうか。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と大変侮蔑した言い方をしたナタナエルでしたが、いちじくの木の下で様々なことを考え黙想し、求道していたまじめな人物でもあります。偏見と懐疑心に覆われていたため、聖書の真理、救霊の神の御技を見つけ出すことができない典型的なユダヤ人だったのです。こんな偏屈な人間の存在を始めから気付かれ、そして弟子として受け入れてくださったイエス様にナタナエルは痛く感激したのでした。