へブル人へ手紙 9章
ヘブル人への手紙 9章
=本章の内容=
❶幕屋❷至聖所➌動物の犠牲
=ポイント聖句=ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。(9:23)
=黙想の記録=●8章では、「モーセが神様から賜った契約」によるユダヤ教儀式は果てしなく続けても不完全なままでしたが、「神様からの新しい契約」はイエス様によって、唯一度、十字架で完璧に成し遂げられたと書かれています。
●ホロコーストの収容所では、子供も大人も青と白の縦じま模様で薄手の服一枚で、四季の全てを過ごさなければなりませんでした。服はユダヤ人にとって栄えある民族や家系を象徴する特別な意義があったのです。しかし、収容所の服装はそれらを全く否定されるものでした。ましてやイエス様は十字架で素っ裸にされ、嬲り物(なぶりもの)されたことは屈辱中の屈辱だったのです。
●本章では虚飾に満ちた「神殿」を使わず、敢えて「幕屋」を用いて、そこで何がなされたのかを説明しています。神殿は「歴代王のこの世の虚勢を示すもの」に他なりませんでしたが、幕屋こそは「神の臨在を現す」ものだったのです。つまり、ユダヤ教の原点はやはり幕屋なのです。
●ところで分厚い幕で覆われた至聖所内は物理的に言えば、漆黒の闇のはずです。そこには燭台の様な照明器具がなかったわけですから。しかし、至聖所には照明器具は不要なのです。何故なら「神の栄光」がその場に満ち満ちていたからです。更に犠牲の動物の血が至聖所内の調度品に注がれる訳ですが、大祭司はその血を拭う必要もありません。また、血の臭いの為に換気をする必要もありません。血の臭いに寄せられて蠅や獣が集まって来なかったのでしょうか?至聖所は神が臨在する場所で、汚れた臭いなど全く無い場所だったのです。これは至聖所が、比類ない聖なる場所である事の証拠です。ところが、この聖なる至聖所は、イエス様の十字架に架けられたその日、隔ての幕屋が上から裂かれ外の光に晒されてしまうのです。『幕屋が上から裂かれたこと』が象徴する様に、隔ての幕が無くなったのは神の意志です。更に白日のもとに晒されてしまったのは、もう至聖所は意味をなさない物になってしまった事を表しているのです。この時から、人を寄せ付けない至聖所はイエス様自らがとって代わられたことになつたのです。
●中途半端に犠牲となる動物の「血を注ぎ出す」ことはありません。熟練した者たちが手際よく全ての血を身体から抜き出すのです。しかもその地で大地を汚すことをしません。ところがです。イエス様が犠牲そのものなら、その尊い血が大地にばら撒かれる様な事があっても良いのでしょうか。これもまた悪魔の所業です。神の子イエス様を十字架につけただけでは飽き足らず、悪魔は最後の最後まで、この規定を設けた神への冒涜を続けたのです。釘つけられた手足から、また、兵士に突き刺された胸から、悪魔は血を大地にばら撒かせたのです。これは父なる神も子なる神も同時に受けていた屈辱に他なりません。この忍耐の上に私達の救いが成り立っているのです。