へブル人へ手紙 6章

ヘブル人への手紙  6章
=本章の内容=

❶原点回帰派の活動❷アブラハムの忍耐➌イエス様こそ大祭司

=ポイント聖句=

ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。(6:1~2)

=黙想の記録=

●ユダヤ教への原点回帰派は、神の家で派を作って行動する為に、ユダヤ教のもっともらしい説明や儀式を取り入れました。言葉による教理の規定説明だけではなく、きよめの洗い、手を置く儀式(按手)を重視することで、他の基督者との差別化をしてきました。目に見える尺度でしか信仰を測ることができないのもこのグループの人たちでした。異邦人教会にとっては、斬新な教えの風の様に思えたのです。
●1990年代の学習塾ではエアコンが設置されていることが他の塾との差別化になっていたことを思い出します。どの家でも安価で購入出来るようになるとそれはもはや差別化にはなりませんでした。流行は直ぐに古びてしまう運命にあります。
●パウロが言っている幼稚な教え(ガラテヤ4章)や本章で言う「堕落」とは、「いばらやあざみ」と言うこの世の心遣いつまり「我が身の保身と生活の安定(家内安全商売繁盛)」の事を指しています。原点回帰派が目指すのは結局ここです。斬新な教えの様に「見えているもの・聞こえてくるもの」はすぐに古びてしまう流行に他なりません。
●18節で二つの事柄とありますが、これは「神様の御言葉」と「神様自らの約束」の事です。アブラハムには神様の約束が神様自らの言葉として伝わっていました。外見上は何ら変化も無いのに、アブラハムはその言葉に自分の将来を委ねました。同様に手にしている聖書に信仰生活の根拠を置き、自分の将来の計画をそこから見つけ出すべきです。『〇〇先生のありがたいお言葉をいただく事。〇〇大会に参加できたと言う特殊体験』では無いのです。この世の宗教団体でもそんなことをしているではありませんか。どんなに稚拙な黙想方法であっても、「自ら神様の前で一人で黙想すること」ができなければ、それは成長していることにはなりません。たとい信徒と言う立場であったとしても自ら学ぶ力が養成されなければ、直ぐに教えの風に吹き回されてしまうのです。