へブル人へ手紙 5章

ヘブル人への手紙 5章
=本章の内容=

❶大祭司とイエス様の比較❷霊的に成長をせよ

=ポイント聖句=

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(5:7)

=黙想の記録=

●キリスト教から離別し、ユダヤ教に原点回帰をしようとした人々は、政治色の強い大祭司を頂点とした当時のユダヤ人コミュニティーでした。
●本章は現存した大祭司とイエス様との比較です。その始まりはレビ族の中のアロンに辿り着きます。ところがこのアロンは金の子牛事件を引き起こした張本人で大祭司としての特質を持ち合わせてはいませんでした。大祭司は人間性においても経歴においてもその務めにおいても完全な人物でなければなりません。ところが歴代の大祭司はどの人物をとっても不完全極まりないのです。イエス様を死刑に誘導したカヤパに至ってはローマ総統に任命された政治色の強い人物で身の安泰だけを考えていたのです。
●メルキセデクはサレムの王であった大祭司でしたが、信仰の父祖アブラハムさへも祝福した偉大な人物です。しかしその経歴は不明ですが、明らかに神がお選びになった人物です。これは神によって選ばれたユダ族のダビデが、王であり大祭司の役割を果たしたの同様です。イエス様はこの点でメルキセデクに等しいのです。
●大祭司の最大の務めは、年に一度、民の代表として、神殿の一番奥の至聖所にたった一人で入り、民の罪の贖いの為の儀式を執り行いました。頭から足の先まで決められた装束を身にまとい、肌の露出は決して許されませんでした。イエス様はゴルゴダと言う刑場で十字架と言う当時の最高刑を受け、ご自身を神へのいけにえとしましたが、大祭司との決定的な違いはどんな装束も身に付けていなかったことです。全裸にされたことは、人間世界では辱しめであっても、神様の側からすれば、イエス様の人としての完全性をお認めになっていたことになるのです。
●「完璧な人」となられた神など歴史上誰一人いなかったのです。完璧に人となられたことで、イエス様は人としての多くの苦しみを知っておられるのです。この方こそ真の大祭司なのです。