へブル人へ手紙 4章
ヘブル人への手紙 4章
=本章の内容=
❶神の安息❷神の御言葉
=ポイント聖句=ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(4:11)
=黙想の記録=●ここで取り扱う「安息」には①安住および休息②神による永遠の救い③困難に立ち向かえる魂の平安を指しているのではないでしょうか。ユダヤ教に原点回帰しようとする人々は霊的な世界を容易に理解していませんでした。彼らにとって「神の怒りに触れない平穏無事な生活」が「平安」と思っていたのです。そうした意味で彼らの信仰へのイメージはとても浅薄でした。70年のエルサレム崩壊直前の時期でもあり「目立つ行動」つまり「ユダヤ教の更に過激なナザレ派に属すこと」は身の危険を及ぼすとも考えていたのです。
●当時の原点回帰するユダヤ人は、「周りの目を気にするあまり、何に付けても無難な生活を送ろう」とする現代基督者にも通じるところがあります。
●エジプトから連れ出された人々は40年間、荒野の訓練にいつも辟易としていました。「神を喜ばす生き方を学ぶ」気持ちなど微塵もなかったのです。それ故に、モーセも含めて「エジプト脱出第一世代」はほぼ「約束の地=カナン」には入れませんでした。同様に「神の兵士」として立場を明らかにしない者が、これから起ころうとしているユダヤ人への大患難(AD70年のエルサレム陥落)以降の不安定な生活に対して、太刀打ちできるはずがないのです。
●冒頭の聖句で「この安息にはいるよう力を尽くして努め」とありますが、誤解しては困るのは十字架による究極的な平安=救いは決して途中で反故にされることはないのです。ここでの安息は③の「困難に立ち向かえる魂の平安」のことで、様々な試練を通して基督者に形造られていく心の状態のことです。逃げるという選択肢もあります。しかし、神様の訓練は御霊の実が身に付くまで何度も反復されます。試練は、「神様が私たちを弄んでいる状態のこと」ではなく「子どもの様に愛するが故の涙ながらの鞭」なのです。この信仰に到達するためには心の努力=忍耐が必要です。そしてこの安息を得るために必要不可欠なのが神の御言葉です。約束と希望と慰めと確信に満ちているのが御言葉なのです。