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ガラテヤ人への手紙 5章

ガラテヤ人への手紙 5章
=本章の内容=

❶律法の束縛と信仰(パン種)❷御霊によって歩む

=ポイント聖句=

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(5:24~25)

=黙想の記録=

●パウロが説明する「肉の行ない」を大別すると①個人的なこと②対外的な事の二つです。「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」は相手やグループなしには湧き起ってきません。個人的な問題も無視できません。なぜならこの個人的な問題で自滅してしまう場合も多いからです。しかし、サタンが巧妙に仕掛ける罠は教会に対するものです。それはサタンに操られている「偽教師の蒔いた問題提起」で始まります。何事にも疑いを起させるのです。さらに偽教師に同調する者達が教会内にセクトを作り出します。次に「対外的な憎しみ」を増長してお互いをお互いから離反させます。これがサタンの思う壺です。
●教会全体が次のようなステップを辿ります。つまり、困難状態になっても神は何も関与しない。>もともと神は人間に関心がない。>神は冷酷無慈悲な存在だ。>そして、初めから神などいない。教会も破壊され、信じる者もいなくなるほどに、跡形もなく「神からの引き剥がし」を実行することがサタンの狙いなのです。
●ガラテヤ教会では「割礼」が問題の発端でした。「外見的な儀式を通過しなければ本物とは呼べない。」は宗教の常套手段です。この時の偽預教師はこれを強要し、ガラテヤ信徒の中にもこれに呼応する者が大勢いたのです。そこにはガラテヤ信徒の肉の弱さ「功名心」が多分に働いていたと思われます。平たく言えば、「割礼を行うことで、私は他の基督者より抜きん出た存在だと思われたい」ということです。この「功名心」の根底にあるものは「人に仕える生き方はまっぴら御免。むしろ周りに仕えてもらう存在」になりたいと言う人間の暗黒部分です。
●「十字架は一度付けられたら、手も足も動かせないところ。自分の好き勝手に生きられないところ。拘束されている様に感じるところ。」です。「これでは閉塞感ばかりが残り息詰まってしまうではないか。」と感じるのなら、あなたは十字架に付けられたのではなく、十字架の前のただの傍観者にしかすぎません。よく「回心とは、人生を180度転換し、神に明け渡すこと」と説明されます。では「明け渡す」とはどんなことなのでしょう。それは端的に言えば「自分の人生を自分のものと思わない」ことです。それが「十字架に付けること」それが「明け渡す」事の本当の意味です。「自分の自由が効く、自己流の自分の人生」が残っている限り「御霊の実」を結実する土壌はあなたのうちにはないのです。