ガラテヤ人への手紙 1章

ガラテヤ人への手紙 1章
=本章の内容=

❶使徒となったパウロ❷ほかの福音とかき乱す者➌パウロの歩み

=ポイント聖句=

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。(1:10)

=黙想の記録=

●コリント人への手紙同様、ガラテヤ教会でも偽教師の問題を抱えていました。この偽教師はエルサレム教会からの派遣であり、パウロ以外の使徒の薫陶を受けてきたと主張します。ところが彼らの主張するところは、「救いはただ信仰による」ものではなく、「律法の遵守・割礼などの儀式も執り行うべし」と余分なことを付け加えていたのです。結果ガラテヤ教会でも大混乱が起きてしまいます。偽使徒のことをパウロは「人に取り入ろうする、人の歓心を買う者」と定義します。コリント教会でも同様な人物がいましたが、結局目的は信徒の救いではなく「ユダヤの律法学者の集金方法」を模倣しているだけだったのです。「律法を守るには、ユダヤのしきたりを踏襲するには、自分たちの教えが必要である」ことを強調するのでした。
●残念ながら今でもこうした偽教師は基督教会の中にも存在します。聞き心地の良い、所謂道徳や哲学や社会事象を巧妙に混ぜ込んだ説教をするのです。人々はそれを聞いてうっとり夢心地になるのです。この騒動の発端はガラテヤ教会の信徒が自ら聖書を学ぼうとしなかったところに要因があるのです。
●以前こんな話を聞いたことがあります。ある国から派遣された複数の宣教師が故国に帰り支援教会で宣教報告をした時の話です。時期をずらして報告に来ていたはずなのに、報告内容が全く類似していたというのです。つまり、彼らは行きやすい宣教地だけを選び、非常に安直な働きをするにとどまっていたのです。その後支援協会は彼らの派遣を打ち切ったというのです。彼らは仕事としての宣教師であり、彼の地の国民の救いなどどうでもよかったのです。
●「伝道とは言葉ではなく行いであり、徹底的に愛することである」とは私が個人的に尊敬している宣教師・牧師・伝道者の諸先生方から受けてきた薫陶です。