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エペソ人への手紙 6章

エペソへの手紙 6章
=本章の内容=

❶~らしく」の応用編❷信仰の武具③挨拶

=ポイント聖句=

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。(6:23~24)

=黙想の記録=

●パウロは6章1~9節で駆け足でそれぞれの立場での歩み方を勧めています。神様が愛される教会について基礎力を十分に身に着けたら応用編はさほど難しいことではないのです。ここでの応用編は主にあって「子供らしく」「父親らしく」「奴隷らしく」「主人らしく」歩むことです。ここでもパウロは「基督者らしく」の基礎力は「しもべとして仕える」ことと結論付けています。ところが多くの基督者が「祝福を与える神=御利益の為の神」は大いに歓迎しますが、「神に仕える=神に拘束される」ことには嫌悪感さへ感じているのです。「そんな堅苦しいことが信仰なら、私は嫌だ」とお感じなら、あなたの信仰は単なる「御利益宗教」です。これが日本人基督者の誤った信仰に関するイメージです。「私がいて神がある」のではなく「神がいて私がある」のです。こうした方々にとって「御利益も、祝福も与えくれない」のなら神様は神様ではなくなってしまう訳です。この点で言うならイスラム教徒の方がずっと真剣な信仰の心構えがあります。「神に仕えてこそ本物の信仰」なのです。
●信仰の武具は子供には身に着けられません。またへなちょこな兵士などいないのです。十分に訓練され、目的意識や忠誠心のある基督者が身に着けて初めて意味があるのです。「初めから兵役拒否。訓練をさぼる。敵前逃亡。」するような基督者が「神の兵士として招集」されるわけがないのです。「わが命我がものとせず」の覚悟がなければ、もっと平たく言えば「自分の人生を全て主に投げ出す」覚悟なしでは「主の兵士」には到底なれないのです。私たちはこの点でも大きな勘違いをしています。
●パウロは、本物の「神の戦士」だからこそ、重要な使命を与えられたのです。新兵に特使の任務など任せられるはずがないのです。