エペソ人への手紙 5章
エペソへの手紙 5章
=本章の内容=
❶愛されている子ども❷光の子ども③花嫁なる教会
=ポイント聖句=ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。(5:1)
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。 (5:8)
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(5:27)
●本章も4章に引き続き。「教会での信徒の歩み方」を紹介しています。1節が歩み方の原則です。ここで「愛されている子どもらしく」という表現を使って、「基督者らしさ」を説明しています。では、第一に誰に愛されているというのでしょう。自分の立場を「子ども」としているのですからもちろん父なる神様のことです。第二にどのように愛されているのでしょう。基督者は救われる前にどこにいたのでしょうか。それは「底知れない不安と空虚さ、罪悪感と悔恨の情、罪だらけの悪臭に満ちた世界。つまりサタンが支配する「暗やみ」の世界です。「暗やみに住む者」は心の底から罪を慕って手放すことができません。その世界から無条件で救い出されたことが何より「愛されている」証拠なのです。この救いの為に私たちのイエス様はご自身を捧げられたのです。
●またパウロは「光の子」という表現で「基督者らしさ」を説明しています。この場合の光は「光となった」とあることから「反射光」ではなく「光源その物」です。光の反射なら反射鏡が必要です。ところがその反射鏡は割れたり曇ったりするとたちまち光を失うのです。しかし私たちに約束されていたのは太陽の様な「光源」です。つまりそれは4章後半から述べられてきた私たちに内住する「聖霊なる神様」のことです。この光は「他者に希望の光をもたらす」のは言うまでもありませんが、「最も照らす場所」は「自分自身」です。聖霊なる神様の光が自分に照らされるとき、神様が「喜べないこと」神様が「喜ばれること」とは何かを明らかにしてくださるのです。いつまでも自分の暗闇を光に晒すことができず後生大事に隠しているなら、「基督者らしさ」が結実できないのです。
●あなたが、「主が愛しておられる花嫁なる教会」となりたいのなら、「際立った装飾品を着けること」つまり「磨かれた賜物」を持つ必要はありません。むしろ「しみや、しわ」つまり「汚点や陰」を持たない純白の状態になることです。