コロサイ人への手紙 1章

コロサイ人への手紙 1章
=本章の内容=
❶福音の真理とは❷御子はどういう存在か➌神の奥義としての教会
=ポイント聖句=神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。(1:13~15)
=黙想の記録=●コロサイはトルコ半島の中央部に位置する都市で、当時は小アジアとシリアを結ぶ東西交通の要地にありました。このため、東西の様々な宗教や哲学思想が混在していました。今流に言えば「新興宗教あるいはカルト教団」がグノーシス主義で、すでにAD1~2世紀に大流行し、3世紀には衰退していきました。コロサイ人への手紙はこのグノーシス主義に汚染されそうな信徒に警鐘を鳴らすために書かれたものです。乱暴に言ってしまえば、この思想は「イエスは霊的啓示を受けた人間であり神ではない。」「霊魂はそもそも清い存在で、肉体のみが汚れている。よって禁欲的、戒律的に生きることでより成熟した人間となる」と教えています。
●東西の要衝であるコロサイの経済的環境から、他国との繋がりの為、時の有力者がこの教えをステイタスとするのは当然でした。コロサイの共同社会に生きようとするなら、ここでのルールを受け入れざるを得なかったのです。パウロが言うところの「暗闇の圧政」とは、全ての根源である神を見つけ出せないこの教えのことでした。そこには「愛する御子の支配」という人格的な神との交わりは始めから期待できなかったのです。御子が受肉されたのは、十字架によって罪から贖いだし、教会と言う新しい共同体に導くためであるとパウロは本書で主張しています。
●オウム真理教は、孤立無援の若者に運命共同体の感動を味合わせ、思考するより神秘的体験をさせることで、若者を集めていきました。この手法は、現在の異端だけではなく、既存教会にも多く見られるものです。こうした教会は「黙想させずに熱狂させる」あるいは「トランス状態にいることを信仰と思わせる」ことを常としているのです。極論とは思いますが、オウム真理教が自説を押し通すために「ハルマゲドン」を演出し、米国の人民寺院は「集団自殺」に信徒を導いていったのも、この単純な手法が始まりでした。
●バイブルキャンプの役割は大きいと言うことは言うまでもありませんが、卑近な例として使わせていただければ、若者がバイブルキャンプに参加している時は霊が燃え上がるような気分になり、帰宅するとその気持ちが萎むのとよく似ています。これは一時的な運命共同体に陶酔しているだけかもしれません。
●教会が「聖書に親しむこと」を教えずに「気持ちを煽ること」だけの場所となってしまうことにとても危惧を感じています。