使徒の働き21章-1

使徒の働き21章-1(21:1~16)
=本章の内容=

❶エルサレムへ

=ポイント聖句=

すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。(21:3)

=黙想の記録=

《1~16節》エルサレムへ
(1)ロドスからパタラさらにツロに向かう行程をこれほど詳細に書くのはなぜでしょうか。陸路で戻れば相当の日数がかかることでしょう。海路で進めば昼夜を問わず目的地に近づくことができます。キプロスを左に見るということはキプロスの南を通過したことになり、キプロスの北を通過するより寄港地が少なくなります。ここから、この船旅はかなり「急ぎ旅」だったことが読み取れるわけです。エルサレム教会での報告や各種の調整相談を終えたなら、直ちにUターンして、ローマ宣教を開始することを望んでいたからではないでしょうか。それほどパウロはローマ宣教への思い入れが強かったわけです。
(2)ツロで積み荷を降ろしそこから陸路でエルサレムに向かいますが、このツロにはすでにキリスト者が多くいました。ステファノの迫害以降、エルサレムやその近郊の信徒は、ツロを避難先としたのです。7日間の親しい交流中にパン裂き集会(聖餐式)もあったかも知れません。この為、ツロの主要メンバーだけでなく、集会に参加し、家族こぞってパウロとの交流を楽しんだことでしょう。パウロの宣教報告を聞き、世界各地でイエスをキリストと認め救われる人々が続々と起こされるストーリーを彼らは大いに喜んだことでしょう、しかし、同時に各地で起こるパウロ一行への迫害がいよいよ激烈になることを予測できました。ローマ行きは危険に満ちたものであると「御霊に示されて」のことだったのです。そこでひと騒動が起きそうな「エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。」わけですが、この思いは当然湧き出てくる人間の感情です。しかし、神様が選んだ「異邦人宣教の為の器」とは、パウロとその同行者であることを最終的に認めざるを得なかったのです。
(3)パウロの毅然とした様子に、ルカは福音書で書いた次のようなイエス様の姿を投影したかったのではないでしょうか。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」(ルカ9:51) ルカは、4~6節のこの短い表現から、「神のご計画は人間の同情心(感情)によって左右されるものではない」ということを表現し、、更に「私たちは船に乗り込み、彼らは自分の家に帰って行った」の文は、パウロ一行が「天の故郷に戻る出発点がこのツロである」ことを印象付けたかった様に思えるのです。
(4)プトレマイスは旧約聖書ではアッコ、新約聖書ではプトレマイスの名で知られるイスラエル北部の港湾都市で、ツロから南に約50kmに位置しています。そこにもエルサレムから難を逃れたキリスト者がいました。さらに南に約50kmに位置しているのがカイサリアです。そこには、カイサリア教会があり、そこを牧会しているのがピリポです。パウロはピリポとはこの時初対面のはずです。「預言をする未婚の娘が四人」の「預言」はギリシャ語で「προφητεύουσαι (プロフェトゥー)」で「神の霊感によって語ること」の他に「予測する、奨励、叱責、忠告、他の人を慰める(コリント第一)」の意味があります。この聖句にもあるように、当時は女性も予測や奨励をしていたことになります。この四人の預言内容はここには記されていませんがなぜ登場させる必要があったのでしょうか。推測ですが、彼女たちは父ピリポ同様に牧会や宣教の働きに加わっていたのではのないでしょうか。またパウロ一行はエルサレム教会について、女性視点から情報を予め得ておきたかったとも言えないでしょうか。
(5)コリント第一13:8に「預言はすたれる」とあるのは、「新約聖書が完成する」からです。ましてや「未来を予測したり他者の人生を占う」ような意味での「預言」は現在ありえません。アガボには未来を予測する。アガボは11:28で登場していた預言者です。この時彼は世界中に大飢饉が起こると預言しそれが的中しています。しかし、アガボが未来をパウロに起こる悲惨な事件を予想できたからと言って、それは反ってパウロ一行の計画の足を引っ張る結果となるだけでした。アガボに確かに聖霊が示されたのでしょう。しかし。だからと言って、これを公表する必要がどこにあったのでしょう。パウロが「私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか(21:13)」と心とを叱責しているのを見てください。結果的には不安を搔き立てただけなのです。ここでも同情心(感情)によって神様の計画は変えられないことを知るのです。なら始めから心配は心に閉まっておき、「主のみこころがなりますように(21:14)」と口をつぐむべきなのです。

 

 

使徒の働き

Posted by kerneltender