使徒の働き19章-2

使徒の働き19章-2(19:21~41)
=本章の内容=
❷エペソでの騒動(銀細工人デメテリオ)
=ポイント聖句=これでは、私たちの仕事の評判が悪くなる恐れがあるばかりか、偉大な女神アルテミスの神殿も軽んじられ、全アジア、全世界が拝むこの女神のご威光さえも失われそうです。(19:27)
=黙想の記録=(1)「この道のことで、大変な騒ぎが起こった。(19:23)」の「大きな騒ぎはギリシャ語で 「τάραχος οὐκ ὀλίγος(タラハス・ウ・オリゴス) 」で「騒動・小さくはない」のでつまり、見過ごすことが出来ない騒動」と言う意味になり、今までの迫害は全てユダヤ人主導のものでしたが、ここエペソでは「ユダヤ人以外の人種から受けた最初の迫害」です。この点をルカはクローズアップしたかったようです
(2)迫害の発端は、「銀細工人デメテリオ」ですが、この人物はヨハネの手紙第三11・12に登場する長老とは別人です。詳細は記されていませんが、恐らく「銀細工人組合の会長(総元締め)」ではないです。ルカが苦々しく名前を記したのは、「アナニアとサッピラ事件」の様に使徒の働きの分岐点となった為「銀細工人デメテリオ」事件として記録したかったからではないでしょうか。この事件で代表されるように「キリスト者や教会へ迫害の発端」は、彼らの持つ宗教概念や異教の神々への畏敬の思いから来たものではなく、「既得権を侵害され大きな損失を受けたと感じた輩の暴力行為」として位置付けておきたかったものでしょう。
(3)日本だけではなく、不思議なことに世界各地の宗教中心地は観光化しており、土産物店が軒を連ねています。日本ではそうした地域一帯を「門前町(もんぜんまち)」と呼び、参拝客を相手にする商工業者が集まることによって形成されています。日光市・成田市・伊勢市は元々門前町がさらに規模化した都市と言えます。エペソは「アルテミスという豊穣の女神を祀る祀る神殿」を中心とした大都市です。現在アルテミスの神像は近くの市庁舎に保管されています。この像は胸部に多数の卵形の装飾を付けた外衣をまとっており、あたかも「多数の乳房を持つ」ように見えるもつものですが、異説として女神への生け贄とされた「牡牛の睾丸」をつけられているともされるでいます。(Wikipedia)。この女神を祀っていたのがアルテミス神殿で遺跡が現存しています。その時代の最高水準の芸術家や建築家が集まめて建造された神殿の大きさは、アテネのパルテノン神殿の4倍でかなり壮大なものであったようですが、現在では柱一本が残っているだけです。「銀でアルテミス神殿の模型を造り(19:24)」とわざわざ「神殿の模型」とルカは意図的に表現しています。銀細工人たちは、ご神体そのものの模型ではなく、その入れ物の神殿の模型を製作販売していたのです。もしご神体の模型を販売して各自に所持させてしまったら、「アルテミス神殿詣で」による経済効果はなくなってしまいます。ここにもしっかりとした打算があるのです。
(4) 「あのパウロが、手で造った物は神ではない」と言ったのは確かに事実ですが、町の書記官が自ら証言している様に、エペソでアルテミスを冒涜した事実は一切ないのです。ですからこれはとんだ濡れ衣になります。しかしこれだけの大騒動に進展してしまった裏には、当時のユダヤ人排斥運動がくすぶっていたからです。当時のユダヤ人も当時の経済を左右する民族だったことがこの排斥の要因ですもあります。その機運を利用したのが銀細工人組合会長のデメテリオだったのです。金儲けの為なら、真実に目を向けず、どんな犯罪行為も厭わないのです。これは前章の女占い師を奴隷にしていた主人達とご同類なのです。神を恐れていたのではなく既得権が侵害されることを恐れていたのです。パウロは、パウロは事態収拾に現場に乗り込み、命を懸けで無実の人間を救出しようとしましたが、その行為がかえって混乱を拡大してしまうので、エペソの信徒達は懸命にパウロを引き留めます。
(6)仲裁役として登場したのが町の書記官(現代版市長などの行政の長)です。彼は非常に冷静でした。互選によって立てられた人物でしたが、エペソ商工業者との癒着はなかったか薄かったようです。彼がパウロ一行の処置を計るのに「正式な集会」つまり「裁判」という町の仕組みを持ち出すのです。「今日の事件については、正当な理由がないのですから、騒乱罪に問われる恐れがあります(19:40)。」と、かえって銀細工人たちを諫めたのは彼の英断です。ですが、ここでもエペソ教会の重鎮であった「アジア州の高官たち」が、この書記官に何らかの働き替えを行っていたのでは、と容易に想像できるのです。ここにも神様の配材があったのです。神様からの召命は「ローマ宣教」です。こんな場所で働きを止めるわけにはいかないのです。神様の召命を掴んでいるキリスト者ほど状況に支配されはしないものなのです。悪しき輩の陰謀が、この裁定により、パウロ一行の宣教活動を公に認可することになるのです。この事件はパウロ自身が記した様に「全てがともに働いて益となる。(ローマ8:28)」ことの実証だったのです。