使徒の働き19章-1
使徒の働き19章-1(19:1~20)
=本章の内容=
❶エペソ伝道
=ポイント聖句=彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであった。(19:12)
このことが、エペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。(19:17)
※パウロの第三回宣教旅行(18:24~21:14)が開始されます。この旅行は福音伝道というより、地方教会信徒へのフォローアップ(激励と教育)の為でした。
《1~20節》エペソ伝道
(1)「アポロがコリントにいたとき(19:1)」とあるように、パウロ同様異邦人伝道はこのアポロの双肩にかかっていたことをルカは記録しておきたかったのです。
(2)エルサレム教会での報告や諸調整を行いましたが、その際ペトロとパウロの間で、異邦人キリスト信徒との食卓事件(ガラテヤ2:11)についての揉め事がありました。その後、支援教会のアンティオキア教会に立ち寄り、さらにそこからパウロの開拓したガラテヤの地方やフリュギアの諸教会の再教育と激励の為、巡回して行きます。
(3)パウロが現地の人々と約束したようにエペソに戻り、本格的な活動を開始します。アポロ同様、エペソの人々は「悔い改め」の意義は理解していましたが、「①イエス様がキリストであること」②日々の生活を支えてくださるもう一人の助け主「聖霊」の臨在」に対する知識を得ていませんでした。彼らにはユダヤ教のメシヤとイエスキリストが同一の方であるとは思っていなかったのです。他教会の発足時と同様、この宣教活動の結果、まず12人が救われ、彼らは以降エペソ教会の指導者になっていきます。
(4) 三か月の間、シナゴーグで活動を行いましたが、イエスをキリストとして受け入れるユダヤ教徒が、それ以上起きてこないので、拠点をティラノの講堂に移します。講堂とは現代流にいえば「大学」でしょうか。ティラノはギリシャ語の「Τυράννου (トロナス)」で、「国王、統治者、君主、主権者」の意味で、場所の名前ではなく、個人に付けられたあだ名とも言われています。この講堂をすんなりと利用することができたのも、すでにその地域の主にある兄弟姉妹のサポートがあったことを容易に想像できます(19:31信徒の中に政府高官がいた)。宣教活動はパウロ個人のパフォーマンスの場ではなく、兄弟姉妹との共同作業であることを忘れてはいけません。
(5) 「驚くべき力あるわざ(19:11)」とありますが、宣教地の状況によっては、こうした「癒しの奇跡」や「悪霊を追い出す奇跡」が必要です。しかし現代では、目覚ましい活躍をする心臓外科医のことを「神の手」と例えるくらいですから、果たして単純な病気が癒されるくらいで、驚異とは思えなくなっています。ここで「悪霊に憑かれている」の「憑かれている」は英語では単純に「have」または「haunted」」を使い、ギリシャ語では「ἔχω(エフォ)」で「持っている、所有している、抱えている」の意味があります。現代語では「霊魂などがのりうつった状態になる」ことの意味のほかに、「何かに夢中になるあまり、周囲が見えなくなってしまった状態」とか「何かに固執する状態」と使われています。「色欲の霊に「憑かれている」「金の亡者=金儲けにいる」「仕事に憑かれている」「取りつかれたようにゲームをする」などの様に使われています。これらを「悪霊」というカテゴリーに分類してしまったら、本人には何の責任がない「心神喪失」の状態と言っているのと同じになります。イエス様が譬えで説明されたように、「単に霊を追い出すだけではさらに強力な霊に支配されてしまう(マタイ12:43~45)」のです。現代人の私たちに必要なのは「エクソシスト」ではなく、霊が変化すること=聖霊の支配と聖霊の実の結実です。心の変化こそが人々を驚かすキリスト者の証となるのです。
(6) 「てぬぐいや前掛け」とあるところから、パウロの普段着はラビの装束ではなく作業着です。この作業着に奇跡を行う力があったのではありません。困った境遇にある人の藁をも掴みたい気持ちは十分理解できますが、「癒される」だけでは、救いに導かれることはありません。祭司長スケワという人の七人の息子たちが通常行っていた行為は魔術です。ユダヤ教では絶対ありえない行為です。宗教を金儲けの手段と日常的に捉えていた7人の息子の結果が、ここで見られる自分を辱める自傷行為です。「癒しの行為」は結局金儲けの道具として悪用されることもあるのです。
(7)「魔術師たちが書物を焼き払う」行為は、悔い改めと救いの結果がもたらしたものです。心の変化が、ライフスタイルも一変してしまった結果です。ルカは5万タラントと言う数字を使い、金銭と言う偶像礼拝から救い出される価値の大きさを説明したのです。