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使徒の働き15章-1

使徒の働き15章-1(15:1~21)
=本章の内容=

❶エルサレム会議①噴出した問題②ペテロの主張③ヤコブの主張

=ポイント聖句= =黙想の記録=

《1~6節》噴出した問題
(1)第一回宣教旅行(13:1-14:21)を終了しアンティオキアに帰還します。ユダヤ教の新興宗派(ナザレ派)の一つと目されていた教会に起こるべきして起こった問題が噴出します。それは「モーセの慣習」と称される「ユダヤ教慣例重視グループ」と、異邦人を中心にしたグループどうしの激しい対立です。このユダヤ教慣例重視グループはエルサレム教会の関係者ではありません。アンティオキアの周囲から自然に集まってきた人々で、今までの異邦人伝道の経緯も知らないユダヤ人なのです。異邦人信徒は、ユダヤ教の秘儀と思われていた種々の慣習にどう向き合うべきかをこの時点では正式に教えられていません。このグループの主たる活動目的は、ナザレ派の主導権を掌握することでした。想像の域を超えませんが、エルサレムに多額の支援金を送った富裕な教会で指導権を握ることは、この教会の指導者となった暁には、パウロやバルナバ同様たくさんの支援金を使うことができるとぐらいに思っていたのでしょう。
(2)主導権を掌握するための近道は、「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」との基督者の「救い」に対する教理を揺るがすことです。しかし、「割礼受ける」を「教会」の秘儀にしてしまうことは、ユダヤ教慣例重視グループに主導権を渡すことになってしまうのです。パウロやバルナバはここで私的な主張を通そうとせず、祭司や律法学者も加わっているエルサレム教会の裁定に任せることにします。「パウロとバルナバ、そのほかの何人かが」とあるところから、慣例重視グループの面々も加わっていたかもしれません。
(3)エルサレム教会でも同様な問題が起きていました。エルサレム教会全体はパウロとバルナバの報告を納得することができたのですが、パリサイ派の者で信者になった人たちは自分たちがよい地歩を固めたいために同様な主張を言っていたのです。
《7~21節》ペテロの主張
(1)会議に集まった人々の意見を出し尽くさせた後で、ペテロが口を開きます。エルサレム教会の重鎮です。彼の鶴の一声で長時間の議論を経ることなく結論が出てしまうはずですが、彼は会議を主導しようとはしませんでした。この自制の態度こそは「聖霊に作り変えられた人」の特徴です。
(2)彼の主張には旧約聖書の引用はありません。彼の体験を根拠にし、無条件で異邦人にも聖霊が下されたこと(救いが訪れたこと)を証言し、「聖霊降臨こそは基督者の生ける証」であると主張します。「私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。(15:11~12)」にある「追いきれないくびき」とはイエス様に対峙していた律法学者が民衆にしてきたことと同類のことであること(マタイ11:28~29、23:4)」をイエス様の言葉を基に主張したものです。また「恵みによる救い」はこの会議後の一環した教理となる重要な一言です。
《13~21節》ヤコブの主張
(1)パウロとバルナバも異邦人が救われていく目撃談をペテロの補足説明として語っています。ここに登場するヤコブはイエス様の実の兄弟で、先にヘロデアグリッパによって処刑された人物とは異なります。イエス様の公生涯の間はその活動に疑念を持っていましたが、復活の主に出会い激変します。AD38年から、石打ちの刑で殺される62年までの24年間、エルサレム教会の長老を務めた人物とされています。
(2)重鎮中の重鎮であるはずのヤコブもまたすべての意見が出尽くした後で語り始めます。ヤコブは目撃情報ではなく、律法学者たちの立脚する旧約聖書を逆手に取り、異邦人の救いを語っています。『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。』は、アモス9:11~12の引用ですが、「エドムの残りの者、すべての異教徒=へブル語でGoy(ゴイ)」となっています。つまり異邦人の救いは預言の一つであることを主張しました。「悩ませてはいけません(15:19)」はもちろん割礼の有無のことです。

 

 

使徒の働き

Posted by kerneltender