使徒の働き12章

使徒の働き12章
=本章の内容=
❶ペテロの脱出劇❷ヘロデの急死、副題:「御使い」と「聖霊の賜物」
=ポイント聖句=すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。(12:7)
=黙想の記録=副題:「御使い」と「聖霊の賜物」
(1)この章は「ペテロの脱出劇」と「ヘロデの急死」の二つの物語なのですが、中心テーマは「御使い」であることをお気づきでしょうか。主の使いが解放の手助けをした(7~11節)・ペテロの御使い(15節)・主の使いがヘロデを打った(23節)とあります。この三か所に登場する「御使い」は全て、ギリシャ語の「angelos(アンゲラス)」が使われています。新約に177回も使われています。特にルカは福音書と使徒の働きの中で、実に43回も使っています。ところでペテロの御使い(15節)にはどこか違和感を覚えませんか。「守護天使・守護神・守護霊」という単語を私たちは耳にしますが、聖書には、それぞれ特殊な役割を持つ数々の天使は記載されていても、「個人個人に固有の天使・神・霊がいる」ということは記載されていません。もし「守護天使」という存在がいるのなら「レギオンに取りつかれていた男性」に付いていた守護天使は何をしていたことになるのでしょう。
(2)そもそも「御使い」の役割は聖徒達に仕える事(へブル1:14)です。賛美をし、メッセージを運び、束縛状態から解放し、危機的状況から救出し、神様の裁きを実行することがそれです。私たちは「御使い」と「聖霊」のそれぞれの働きを混濁しています。聖霊は「助け主」ですが私たちに「内住する神」であって、御遣いの役目を担ってはいません。また、「聖霊の賜物」は「基督者全員にもれなく与えられるおまけ」ではありません。「賜物=天賦の才能」であって各個人でその賜物が異なります(コリント第一12:11~12:30)。特に、現代では、医療が発達している地域では、使徒時代の様に「癒しの賜物」が「伝道の有力な武器」になるとは限りません。イエス様が数々の奇跡を行っても、それを体験し、あるいは目撃した人全員が救いを経験したわけではありません。かえって、イエス様の「言葉による伝道を妨げる」結果となっていたのです。悪魔でさへも奇跡を行う(マタイ24:24)力を有するので、安直に癒しや奇跡を求めることは「自己顕示欲」と言う悪魔の罠に陥る危険性があります。また、病気や生活苦等の「様々な試練」によって成長するべき「忍耐」力の成長の妨げになることをご承知ください。(ローマ6:3)。聖霊の賜物は教会成長の為(ペテロ第一4:10)に用いられますが、たとい賜物が顕著に現れなくてもそれで充分です。賜物以上に備わっていなければならないのは「兄弟愛」です。この「兄弟愛」の希求をおろそかにする教会は、実力主義・実績主義に陥り、聖霊以外の支配下に身を託してしまっていると言えるのです。
《1~19節》ペテロの脱出劇
(1)ヘロデに斬首されたのは外ならぬイエス様の重要な三大弟子(ペテロ・ヨハネ・ヤコブ)の一人であり、ヨハネの兄弟ヤコブだったのです。「雷の子」と称される激しい気性の持ち主であることは容易に想像できますが、同時にナザレ派の急先鋒としてとても迫力のある人物だったようです。それがかえって仇となり、ヘロデアグリッパ1世の目につくことになったわけです。このヘロデアグリッパ1世はいつも他人の目を気にする小心者のくせに、自己顕示欲の強い人物でもありました。「ヤコブを処刑すればナザレ派を黙らせることができる」と踏んだのは、宗教指導のご機嫌取りでした。ところで、なぜヤコブは殺されペテロは解放されたのでしょうか。「イエス様が私の杯を飲むことができるか」と問い質した際、ヤコブとヨハネは「できます」と答えてしまっているのです。この宣言が、ヤコブには「12使徒最初の殉教者」であり、ヨハネには「パトモス島に終生幽閉される」結果をもたらしたのです。神様の前での誓いは途中で反故にすることができないのです(マタイ5:33)。
(2)ペテロもきっと死を死を覚悟していたことでしょう。しかし、神様のご計画は当分の間生かして用いることでした。「生きる期間の長短」は人間的には大問題ですが、この世に固執していない基督者には無関係のことなのです。まさにドラマチックな救出劇が行われました。追手が迫っています。焦っていたことでしょう。入口の門を叩けば安全が待っているはずです。ところが、ここでペテロは足止めされます。この情景は復活の朝、弟子たちが潜んでいる家に女性たちが飛び込んできたときのことを思い出させます。夢幻の類とばかりに信用していません。彼の救出のために祈ってはいましたが、心の底にはペテロを失うと恐れがあったのです。この出来事の目撃者はペテロ唯一人。時系列にそって詳細を語り、神様の特段の配慮があったことを喜ぶのです。一方、厳重な警戒をしていたはずの番兵たちもの狼狽ぶりは目に浮かぶようです。
《20~25節》ヘロデの急死
(1)バプテスマのヨハネそしてヤコブ、更にはペテロの命を取ろうとした血の責任は一国の王であろうとも容赦されないのです。狡猾に世渡りをした人物です。しかし歯向かうものには容赦しません。会衆が「神の声だ」と叫んだのはヘロデに対する忖度もありますが、一説によると眩いばかりの装飾品を身にまとっていたので、会衆には神々しく思えたのです。「人工的栄光」を自分で演出したのですが、神様はそれを許しませんでした。惨めにも毒虫に刺され、アナフィラキシーショックで死亡してしまいました。