使徒の働き5章
使徒の働き5章
=本章の内容=
➊アナニアとサッピラ事件❷多くのしるしと不思議❸再びサンヘドリン
=ポイント聖句=妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(5:2)
しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。(5:29)
《1~11節》アナニアとサッピラ事件
🔴ペテロとヨハネを脅かすことは、生まれたての教会に甚大な被害をもたらすはずだったのに、不発に終わってしまいました。そこでサタンは今度は内部から問題を発生し教会を瓦解しようとしたのです。「内憂外患」サタンは絶えずこの波状攻撃をかけてきます。
🔴元来ユダヤ人には「富を持つ者は、持たざる者と共に富を分かち合う」という精神を持っていたはずですが、現代社会と同じように、人々は「富への執着心」が強く、さらに「富を持つ者は神に祝福されている」との誤った認識が蔓延していたのです。この部分は現代社会ではさらに顕著です。「人の幸福は蓄財の量に比例している」と考える人が多くいます。ルカの福音書に「この世の富」に関する記述が数多く見受けます。それだけ、ルカは「この世の富」が人間を狂わせ、人が神々の様にそれらに服従していることを警告しています。これは同時に「二羽の雀さへ養ってくださる神様」を疑い、「生活の全てを委ねる」信仰を失った姿なのです。ここで思い出すのがルカが取り上げた「ザアカイの物語」です。彼が口約束した財産の分配について思い返してください。彼の約束に従えば、彼の財産は一気に無くなってしまうはずです。しかし、彼に芽生えたのが、「イエス様への出会いは他の何にも代え難い」という思いであり、同時に「財産は救いにはならない」という強い確信だったのです。
▲アナニアと妻サッピラがなぜ「急死」という事態に陥ってしまったのかを黙想してみましょう。4章後半では当時の名士であったバルナバの「富に対する潔さ」が人々に称賛を集めています。初代教会に加わった人々は「富に対する執着心がなくなり、さらに生活の糧(かて)は父なる神様が保証してくださることを確信している」様子が伺えるのです。ところがこの姿を見て、アナニアと妻サッピラの中は、同時に鎌首を持ち上げてきたのが「全ての生活の主権を父なる神様に渡しきれない。また自己努力の結果を失う恐れ」つまり「全てを信仰の為に使うのはもったいない」という不健全な思いでした。恐らく二人は、バルナバにも匹敵する財産を寄付したことでしょう。でもそれは、彼らにとって痛い出費だったかもしれませんが、全てではなかったのです。「使徒たちの足もとに置く」という行為は、「この財産の寄付は、私たちの生活の全てです。これをもって神にわが身を捧げます」という意思表明なのです。ところが実際は「誤魔化し」行為だったのです。
🔴彼らが救いを経験ていたのは状況から判断できます。「聖霊を欺く」という言葉は、逆に聖霊を受けている証拠です。また「彼らの死が教会に恐れをもたらした」こともその状況証拠になります。この行為は、特にスタートラインに立った教会の出鼻をくじく重大な過失だったのです。「花嫁なる教会の純潔を汚す行為」を犯してしまったのです。彼らの死は教会の純潔を保つために行われた神の裁定でした。
《12~16節》癒しの継続
🔴「多くのしるしと不思議が人々の間で行われた」ことは初代教会では、必須事項でした。なぜならこのグループが確かにメシヤであるイエス様の関係者であることを証明するからです。この行為が継続されたことで、人々は、イエス様が送ってくださった聖霊なる神様の存在の確かな証拠にもなるのです。
《17~18節》第二回目のサンヘドリン
🔴再び使徒たちに災難が降りかかります。エルサレムがさらに収拾のつかない混乱状態に陥ってしまったからです。使徒たちを捕縛し厳重な留置場に押し込んでしまうのです。ところが、ここで超自然現象が起こされます。刑吏が気付かぬうちに、牢獄の扉が開き、使徒たちは宮に連れ出されていたのです。彼らはそこから逃亡したのではなく、宮で大胆に説教を始めた為、サンヘドリンが再度招集され、そこで使徒たちの尋問が始まりました。「あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしている」との言葉は彼らの胸中にある正直な恐れを表しています。エルサレムの住民はほぼ、このグループに偏っていて、理不尽な判決すれば、民衆がだっていないことを心から恐れていたのです。結局、見せしめとしてむち打ち、語ることを禁じたうえで釈放せざるを得なかったのです。ガマリエルの説得の言葉に出てくるテウダとはガリラヤで対ローマへのテロを起こした熱心党の首領ですが、自らをメシヤと自称していたのです。このグループもまたそうした自滅する運命にあるということを述べたものです。