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使徒の働き3章

使徒の働き3章
=本章の内容=

➊足の不自由な人の癒し❷ペテロの大説教

=ポイント聖句=

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。(3:15)

=黙想の記録=

《1~10節》足の不自由な人の癒し
🔺ここでは「身体障害者」と言わずに「足の不自由な人」と微妙な言い回しになっています。「障害を背負った人間は可哀そう。その障害を神様は必ず治してくださる。」と、無神経この上ない言葉をかけてくる方がいます。でもこれでは、「健常者でいることが幸せ、障害者は不幸」という思いが根底にあるのです。これを拡大解釈すれば「平穏無事でいることが幸せ、異常事態に陥ることは不幸」ともなってしまうのです。このように考えるのではキリスト教も「家内安全商売繁盛」を願う「ご利益宗教」と何ら変わりがありません。
🔴美しの門は、神殿の外側を囲む外壁のほぼ中央にありました。その門の内側では供物を売る店が軒を連ねていました。イエス様の宮清めは何ら効果がなかったのです。凡そ「祈りの家」とは呼ぶことができない雑踏と雑音が支配していたのです。4章では彼の年齢を40歳過ぎと書いています。健常者なら今頃は、穏やかな家庭を持ち、子宝に恵まれていたはずです。「宮の門に置いてもらっていた」との表現から、彼が周囲の人々から「物扱いされていた」のでは、と思われるのです。孤独・孤立の極みにいたのです。彼の生活費は人の情け。そんな人物だったので、外見ではなく人の内面を見抜く力ができてしまったのです。ペテロとヨハネはどう見ても金持ちには見えません。しかし、情に厚い人物であることを彼は察し、手を伸ばしたのではないでしょうか。
🔴「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」の中で「ナザレのイエス・キリストの名」と言う言葉かけは注目すべきものです。「全能の神、主」ではないのです。「ナザレのイエス。十字架に架けられたイエス。復活されたイエス」が「力ある神メシヤ」であることを神殿内外で高らかに宣言したのも同然です。癒された本人は、絢爛豪華ではあるが単なる「物」としか映っていなかった宮が、ユダヤ「人」として堂々と賛美をできる勇気を表す場所となったのです。
《11~26節》ペテロの大説教
🔴ところで、官憲の目が光る中、なぜ、ペテロとヨハネは神殿に出向いたのでしょう。想像の域を超えませんが、以降続く「ペテロの説教」の為ではなかったでしょうか。「イエスの死によりナザレ派は自然消滅してしまった」と考えていた宗教指導者たちへの挑戦状とも思えるのです。聖霊のバプテスマ直後のあの説教で3000人もの人が改心したことも、証人としての確信と勇気を持たせたことだったのです。一時の熱情に振り回されるペテロはここにいません。
🔴以下ペテロの説教内容をまとめてみます。「救い」という言葉は使われていません。
(1)足の不自由な人が確かに癒されている。これはイエスを信じるゆえの力の現れ
(2)古の族長やモーセや数々の預言者によって約束されたメシヤがイエスである
(3)ユダヤ人は約束のメシヤを十字架に架けるという大罪を犯した
(4)しかしメシヤのこの受難は予め予定されていた神の計画だった
(5)悔い改めて立ち返るなら罪は拭い去られる
(6)ユダヤ人は契約の民であるが、同時にあなた方ユダヤ人の霊的な回復が、全世界の祝福に基いとなる

 

 

使徒の働き

Posted by kerneltender