テサロニケ人へ手紙第二 1章

テサロニケ人への手紙第二 1章
=本章の内容=

❶迫害や試練の意味❷神の報復➌召しにふさわしい者となれ

=ポイント聖句=

兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。(1:3~4)

=黙想の記録=

●シラスは第二次伝道旅行に同行した人物で、パウロと一緒に投獄され、牢獄の中でパウロと一緒に賛美を捧げた勇敢な人です。シラスはパウロにとって苦楽を共にしてきた本物の戦友でした。
●比較的若いテサロニケ教会に起こった迫害は尋常の物ではありませんでした。しかし、この試練を通し、教会は忍耐を学びさらに神の聖さに預かる特権を与えられ、そこから訓練の賜物として、御霊の実を結実させることができたのです。これが教会と迫害との関連性になるわけです。試練の起こることのない教会は生きた教会ではありません。さらに言うなら、信徒や教会が試練を極力避けて行くように方向性を取るならその信徒や教会はもはや死んだも同然なのです。テサロニケにはコリント同様、「性的な乱れ」が文化の中に浸透していました。ここから教会が清められるために迫害が起こったとも言えるのです。意味のない試練は起こりません。
●ところで太平洋戦争中、プリマスブラザレンといくつかの教団を除き、日本のほとんどの教会が日本帝国に抗うことをせず、安直な方向に舵を取ったことは史実です。教会の中では、天皇の肖像画に向かって遙拝してから日曜礼拝が行われていたのです。確かにこれなら教会に迫害は持ち込まれません。しかし、これは本当に、教会や信徒を守るための苦肉の策だったと言えるのでしょうか。教会は確かに生き延びました。しかし、神の聖さに預かることを拒否してしまったために、教会は現代でも「聖霊の実・義の実・救いの実」を得ることができないのです。
●残念ながら、既存の教会は戦後一気に海外から持ち込まれた教団ばかりで、このような試練を経験していないものです。コロナ禍よりもさらに深刻な試練が起こった場合、果たして日本の教会の行く末はどうなってしまうのでしょうか?。