ウザの死はダビデの身代わりだった

なるほどTheBible2024/03/13
=ウザの死はダビデの身代わりだった=
Q:ウザの死は神の箱を触ったからなのですか?
[参考聖書箇所] サムエル記第二 6章6-7節
6-7,彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。
A:結論から言えばNOです。この悲劇の伏線は三万人の軍人がエルサレムに集結した(1節)から始まっているのです。
【ポイント①】全イスラエルの民意を結集できるのは武力ではなく信仰心であるとダビデは気づいていたのです。ならばサムエルの意思を継ぎ信仰心を醸成するための教育機関を全土に設置し充実させれば良いのです。レビ族を徴用しその任に充てれば良かったのです。ところがそんな息の長いことができる意思も根気も今のダビデには見られません。「神の箱をエルサレムに安置し、エルサレムを礼拝場所として民に参拝させる」という安直な方法を打ち出すのです。この安直な手段だったからこそ以下の大きな事件を巻き起こしてしまったのです。「1,ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。」とありますが契約の箱を運ぶために召集された人々ではありません。今後の軍事行動を協議するために呼び出された軍人たちです。Ⅰ歴代誌13:1-4ではその軍人たちが一堂に会する場所で、ダビデは突然「契約の箱の移動計画」を持ち出し満場一致で同意を得るのです。ところがここには「御心を伺った」という記録は見つかりません。もしこの神の箱の移動が御心を伺った結果とするなら、祭司達が率先して運搬作業を執り行ったはずです。ところが第一回目の運搬作業の際に契約の箱を運搬する際に祭司の姿はそこにないのです。・・・Ⅰ歴代誌15章ではウザの事件以降かなり時間が経過した後でダビデは再度契約の箱の運搬を試みますがその時には祭司たちが動いていた記録があるのです。・・・キルヤテ・エアリムからエルサレムまで約8km。ダビデは現地に赴いてはいた(Ⅰ歴代誌13:6)のですが、運搬作業はユダ族のアビナダブ家に丸投げしていたのです。つまり運搬方法を彼らの好き勝手にさせたのです。この時点でダビデは主なる神様の御心を損なう大きな罪を犯しているのがお分かりになるでしょうか。
【ポイント②】神の箱を牛車で運搬するのは異教徒のすることです。ペリシテ人がイスラエルに返却した時の方法に倣っているのです。神の箱を運び上げる際には神の箱の四隅に取り付けた輪に竿を通しその棒をレビ族の祭司が担ぐことによって移送するのが既定です。しかも祭司達に担がせても約2時間程度で運搬できる距離なのに牛車を利用し運搬するのは規定違反です。また神の箱を移動できるのはレビ族の祭司達です。アビナダブの子、ウザとアフヨはユダ族であり、本来この位置にいる筈がない人物なのです。牛車の御者はアフヨ、神の箱の傍で歩いていたのはウザ。つまりこの重要な任務の中心人物はウザとアフヨだけなのです。衆人の注目は否が応でもこの二人に集まるのです。以下は私の想像ですが。ダビデはアブネル家が20年間も契約の箱を守り抜いた功労を内外に知らせたかたのです。その方法が契約の箱を運ぶ栄誉をアブネル家の二人に提案することであったのです。更にダビデはこの二人をエルサレムで確固たる地位を約束していたのではないでしょうか。ダビデのこの提案はウザとアフヨにとってまたとない出世の機会なのです。二人にとって神の箱を護衛するという表向きの名目は都登りの大チャンスだったのです。「5,ダビデとイスラエルの全家は、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らし、主の前で、すべての杉の木の枝をもって、喜び踊った。」とありますが、瞬時も契約の箱の傍を離れなかったウザとアフヨにとっては、歓呼の声に包まれたエルサレムへの行進は人生最高の晴れの舞台だったに違いないのです。ところがこの出世欲丸出しのこの出しゃばった行為こそがそもそも主なる神様の御心を損なっていたのです。
【ポイント③】ナコンの打ち場(全行程の中間地点)で突然牛車がよろめくのです。よろめく契約の箱を支えようと契約の箱に触れた途端ウザは死んでしまうのです。これは契約の箱の取り扱いの規定(民数記4:15)にもあることなのです。荷物が平凡な品物ならウザの行為は当然のものです。咎めるべき点は何もないのです。しかし運搬しているのは契約の箱です。信仰心のないウザにはこの区別がついていなかったのは確かなことです。
【ポイント④】ところでなぜエルサレムまで無事に届かなかったのでしょう。エルサレムに運び入れることは全イスラエルにとって喜ばしいことではないのでしょうか。ここには信仰を度外視したダビデの勝手な行動に対する主なる神様の審判の御意志がはっきりと見えるのです。仮にエルサレムに牛車で運び入れた場合、ベト・シェメシュの住民に起こった悲劇(Ⅰサムエル記6:19)が起きる可能性があったのです。いやもっと過酷な裁きがなされたこもしれないのです。悲劇を繰り返さない為に主なる神様の御慈愛がとどめたとは言えないでしょうか。
【まとめ】ウザの死は不慮の出来事ではありません。総じていえば不信仰の結果です。しかし最大原因は慢心故に不信仰に陥っていたダビデ自身にあります。ウザの死はこのダビデの身代わりだった言えるのです。