サムエル記第二22章-2
サムエル記第二22章-2(8-20節)
=本章の内容=
ダビデの詩篇❷信仰の高嶺に立って
=ポイント聖句=19-20,私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども、主は私の支えとなられました。主は私を広いところに連れ出し、私を助け出されました。主が私を喜びとされたからです。
=黙想の記録=❷8-20節:信仰の高嶺に立って・・・1-12節は創造主なる神様の実在に圧倒されているダビデの様子を表現したものです。イスラエルとパレスチナの中心地に火山はありません。しかしゴラン高原は明らかに火山活動に形跡が見られます。もし古代イスラエル人が火山活動を見たとするならこのゴラン高原で起きた火山活動だったのかもしれません。またイスラエルやその周辺国では地震が頻繁に起きています。不動と思われる大地をいとも簡単に揺れ動かすことのできる地震。天空全体に鳴り響く雷鳴や閃光を放つ雷などの気象現象。古代の人々はこれらの自然現象を体験するにつけ、抗うことのできない巨大な力を持った存在を身近に感じたのです。ユダヤ人が幸せなのは、「創造主」という概念を始めから持っていることです。異教徒が考えている様な自然=神という存在ではなく、全くの無の状況から驚異に満ちた自然を造られた方が存在されるという事実を確信していることです。そしてこの創造主は意思をお持ちであるということです。この個所はシナイ山でイスラエル人のご自身を顕現された主なる神様の御様子としてとらえることもできます。シナイ山に上ってなかなか戻ってこないモーセにしびれを切らした輩がアロンをそそのかして金の子牛を作らせた時の主なる神様の怒りの様子とも捉えることもできます。13-16節は、その創造主がイスラエルの歴史に数々の奇跡をもって介入された史実をダビデは知っていたことを証したものです。紅海を渡らせる際にも考えられない奇跡を起こし数十万人のユダヤ人を救いに導いたのです。約束の地カナンに入っていった時数々の敵と対峙した時にも主なる神様は多くの奇跡を持って並みいる敵を蹴散らして下さっていたのです。17-20節では、その創造主にしてユダヤ人の歴史に介入してくださった主なる神様が、ちっぽけな存在にしか過ぎない「人であるダビデ」に目を掛けて下さり、また彼の人生に深くかかわってくださった事実に打ち震え感動しているようすを表現したものです。ここで「17,主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。」とありますが、ダビデは数々の災いに遭遇する度に何者かに漆黒の底知れぬ暗黒に引きずり込まれるような感覚に陥ったのです。「18,主は、力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らは私より強かったのです。」とあるように、人間の背後にうごめくこの世の支配者の様な存在を感じ取っていたと推測されるのです。ここに登場する「敵」は単にサウル個人を限定してはいないのは明らかです。しかしこの巨大な敵を前にしてダビデは主なる神様が傍らにいて自分を抱え運び自ら踏み台となってダビデを支えて下さったと感じ取ることができたのです。「20,主は私を広いところに連れ出し、私を助け出されました。主が私を喜びとされたからです。」にある「広い所」とは?「雁字搦めにされている試練の現場」との錯覚から目を覚まし、何物にも縛られない魂の自由を感じる状態のことを「信仰の高嶺」と言います。様々な困難苦難に慌てふためく前に主なる神様の目の位置に立って俯瞰し、困難苦難を眺めることができるこの能力こそが「信仰の高嶺」です。
サムエル記 第二 22章8~20節8,地は揺るぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。主が怒られたからだ。
9,煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった。
10,主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。
11,主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。
12,主は、闇をご自分の周りで仮庵とされた。水の集まり、濃い雲を。
13,御前の輝きから、炭火が燃え上がった。
14,主は天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。
15,主は矢を放って、彼らを散らし、稲妻を放って、かき乱された。
16,こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒い息吹によって。
17,主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。
18,主は、力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らは私より強かったのです。
19,私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども、主は私の支えとなられました。
20,主は私を広いところに連れ出し、私を助け出されました。主が私を喜びとされたからです。