サムエル記第二22章-1

サムエル記第二22章-1(1-7節)
=本章の内容=
ダビデの詩篇❶苦しみの中で叫ぶ
=ポイント聖句=7,私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。
=黙想の記録=❶1-7節:苦しみの中で叫ぶ・・・ダビデはヘブロンで7年半・エルサレムで33年間の長きに渡りイスラエルを統治してきました。「サウルの手から救い出された日」とはサウルがペリシテ人との戦いで自害した(BC1000・ギルボア山)報告を受けた日(Ⅱサムエル1:4)のことです。生涯で2度サウル殺害のチャンスがありましたが、いずれもダビデは油注がれた者を自らの手で殺害するという大罪を避け主の手に委ねました。今サウルの死は主なる神様が下されたものです。「暴虐」とはサウルからの激しい追跡のことです。ダビデにとってサウルの追撃の日々はたった一度のことではなく「死の波」の様に感じるほどに何度も押し寄せて来るものでした。「滅びの激流」の様に生活の基盤を押し流すほどの影響がありました。その証拠にダビデは家族や一族とともに何度も生活の根拠地を移動せざるを得ませんでした。「よみの綱は私を取り囲み」とある様に逃げ場が見いだせない絶体絶命の危機を経験し、「死の罠は私に立ち向かった」とある様に不自然で不条理極まりない不幸が目の前に置かれていると感じるものでした。その苦しみの極みの時にダビデは自暴自棄に陥ったのではなく、信仰によって自分を救い出して下さる方の存在をはっきり確信することができたのです。主なる神様はダビデにとって「わが巌、わが砦、身を避けるわが岩、わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場」という存在であったのです。「わが巌、身を避けるわが岩」は文字通りダビデ一行が一時期生活した自然の要害です。「わが砦、わがやぐら、わが逃れ場」は人工的な要害です。「わが盾、わが救いの角」は自分自身に備わった防御力のことで、不思議なことに逃亡している最中に武力や人的資源が次第に増し加わっていったのです。ダビデは心の中にいつも「逃げ場」を持っていました。それは「主を呼び求め、神に叫ぶ」ことで主なる神様に心を向けることができたからです。「なぜ突然こんなことが起きるのか」「なぜこんなにも長く困難が続くのか」「なぜ私だけ」「なぜこんなに理不尽な取り扱いを受けるのか」などそれは時には祈りというよりあるいは懇願するというよりは「不平不満の呟きや恨み節」でもありました。「神に叫ぶ」とは口角泡を飛ばして訴えることです。静かに必要性を説明している様子ではありません。怒りの感情を相手にぶつけている様子が「叫ぶ」ことなのです。この様子は不信仰であり信仰の欠如のしるしではありません。主なる神様は、聖霊があなたを慰めることができるように、あなたが激しく叫ぶことを望んでおられのです。「叫ぶ」ことすら信仰のしるしなのです。この状態が「主にすがっている」ことなのです。そしてこの苦しみを経験した者だからこそ「感謝」と「賛美」が生まれてくるのです。
サムエル記 第二 22章1~7節1主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。
2彼は言った。「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、
3身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。
4ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。
5死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。
6よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。
7私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。