サムエル記第二12章-2

サムエル記第二12章-2(15-23節)
=本章の内容=

❷ダビデの身代わりに死んだ幼子

=ポイント聖句=

15,ナタンは自分の家へ帰って行った。「主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。

23,しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。

=黙想の記録=

❷15-23節:ダビデの身代わりに死んだ幼子・・・「15,主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。」折角生まれでた子供の命を取る意味は何でしょう。端的に言えば「身代わりの死」です。「あなたは死なない」とナタンは宣告しました。「16-17,ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。」のこの祈りは「子供の命を取らないでください」という切なる願いだったのですが、実はこの時すでにダビデは子供の死を予感してしまっているのです。なぜなら「自分の身代わりとなって死ななければならない我が子。この幼子を死に向かわせるのは自分の犯した大罪の為である。」ことを悟っているからです。つまり姦淫と殺人の大罪を犯したダビデとバテ・シェバは本来死刑に処せられるべきです。ところがダビデにはイスラエル国家を構築する任務を継続しなければなりません。またバテ・シェバは次期国王を出産するという任務が残されています。ならば死刑という量刑は誰かが肩代わりしなければならないのです。祭儀的律法によれば羊や牛の雄の初子を聖別するとあり、また族長(上に立つもの)が故意ではない罪を犯した場合の全焼の生贄は傷のない雄やぎとされています。つまり主なる神様は死罪に当たるダビデの罪の量刑を生まれてくる男の子に課したと言えるのです。まるで我々の罪を背負って十字架で死なれた方の様にです。実はこの経験こそ「受難のメシヤ」を預言した詩篇22篇を産み出すもとになっているのです。「わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか・・・」の台詞は正に死にゆくこの幼子からダビデに届いていた声に違いないのです。また「七日目にその子は死んだ」とありますが「七日間、その母親のそばに置き(申命記15:19)」が実現したものと思われます。死産ではなく7日間も生きて母親の傍に置かれていたのです。バテ・シェバにとっては短期間ですが我が子を愛でる為に主なる神様が用意してくださった時間ですがダビデにとっては暗黒の時間です。この暗黒の七日間はダビデに真の悔い改めをさせる為に与えられた主なる神様からの精神的圧迫の時間でだったのです。我が子の死を通して己の犯した大罪が如何に愚かで空しい者であったかを諭すための時間だったのです。「20,ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。」はとても奇異に思える行動ですが、「我が幼子による身代わりの死」という観点から考えると納得がいくのです。ダビデは幼子の死をもって罪が赦されたことを確信したのです。「23,私があの子のところに行くことはあっても」とダビデは死後の幼子の行先を知っているのです。幼子が亡くなることは一時的な悲しみではありますが、ダビデ契約で約束された永遠王国に幼子が迎え入れらるとも確信できたのです。「からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした」の行動はこの確信に基づく行動だったわけです。ところが21-22節にある様にダビデはこの「良さ名護の死は身代わりの死である」という真理を他人に語ることはできませんでした。「幼子の死が二人の大罪を超軽視した」という考えを王やけにすれば、臣下や民衆にとって「それはあまりにも虫が良すぎる考えだ」と思われてしまうからです。また「幼子の死」は他者に一時語って済まされる問題ではなく一生涯を掛けて背負っていくべきダビデにとっての十字架だったのです。

【重度心身障害や乳幼児の死後について】
すでに多くの方々が同様な結論をお持ちの様です。Ⅱサムエル記12:23)の聖句は特別な意味を持つ聖句で、重度の知的障害者や乳幼児の様に自らに罪の自覚がない場合、父なる神様は死後どのように取り扱われるのかを想起させるところです。エペソ2:3には「生まれながら御怒りをうけるべき子らでした」とあるように人類はすべて生まれながらに罪を犯す因子を持っているところから上記の人々[重度心身障害や乳幼児]もその対象になります。ところが黙示録20:12にあるように「・・・小さい者も・・・自分の行いに応じてさばかれた」とあり神様の有罪判決は実際に犯した行為を根拠にしているので上記の人々は有罪の非対象者つまり無罪となるのです。12章でダビデは大罪を犯しましたが、ナタンは「主もあなたの罪を取り去ってくださった。」と証言しています。またダビデ自身も「背きを赦され罪をおおわれた人(詩篇32:1)」と神様に赦された存在であることを自覚しています。さらに永遠の王国を約束した「ダビデ契約」(Ⅱサムエル7:16)とそれを再確認する「ダビデの辞世の歌」(Ⅱサムエル23:5)でも永遠の救いを述べています。そこで上記の聖句を眺めるとダビデは死後自分の行ける所を自覚していることが分かります。したがってダビデが行くところに「あの子」も行くことができると解釈できますから重度心身障害や乳幼児がダビデ同様「永遠の救い=天国」に行けることが確信できるのです。

=注目語句=

=注目語句=
語句①子(15):英語child;ヘブル語イェレッドゥ[子,息子,男子]・・・ここでは男子を現わす単語が使われている。バェース[娘、女子] ※初子の規定・・・申命記15:19では雄の初子を聖別するとある。また出エジプト22:30では犠牲として捧げられる初子は「七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。」と規定がある。・・・ダビデの初子の場合誕生してから七日間は生きて母親のそばにいたことになるのです。

※族長の為の罪のいけにえ・・・レビ記4:22-23では傷のない雄やぎを生贄とすると規定されている。
語句②打たれる(15):英語struck;ヘブル語ナギャッフ[打ちのめす]・・・明らかに主なる神様が関与されたとみられることをさす。「打たれた」例:ベテシュメシュの住人(Ⅰサムエル6:19)・ウザ(Ⅱサムエル6:7)

語句③病気(15):英語very sick;ヘブル語アナーッシュ[不治の病]・・・明らかに神の手によると分かるものとすると伝染病や肺炎などの感染症ではない。頭血腫かもしれない。頭蓋骨の骨膜下におこる出血で100人に1~2人の頻度で起こるといわれている。乳児の側頭部にできやすく血液が溜まって瘤のようになったものです。 生まれてすぐは目立たないが、半日から数日経って膨らんでくることでわかる。