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ダビデの身代わりに死んだ幼子

2024年7月4日

なるほどTheBible2024/03/28
=ダビデの身代わりに死んだ幼子=
Q:ウリヤの妻がダビデに産んだ子は「罪の子」だから死んだのですか?
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[参考聖書箇所] Ⅱサムエル記12章15節・18節
15,ナタンは自分の家へ帰って行った。「主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
18,七日目にその子は死んだ。
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A:結論から言えばNOです。ダビデとバテ・シェバの不倫によって生まれた子供は「姦淫の子=罪の子」だから死んだという解釈に納得できません。なぜならエペソ2:3には「生まれながら御怒りをうけるべき子らでした」とあるように人類はすべて生まれながらに罪を犯す因子を持っていることからするとダビデの子供だけを「罪の子」と特定することはできないはずです。ではなぜせっかく生まれた子供を神様は「打たれた」のでしょうか。
「15,主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。」折角生まれでた子供の命を取る意味は何でしょう。端的に言えば「身代わりの死」です。「あなたは死なない」とナタンは宣告しました。「16-17,ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。」のこの祈りは「子供の命を取らないでください」という切なる願いだったのですが、実はこの時すでにダビデは子供の死を予感してしまっているのです。なぜなら「自分の身代わりとなって死ななければならない我が子。この幼子を死に向かわせるのは自分の犯した大罪の為である。」ことを悟っているからです。つまり姦淫と殺人の大罪を犯したダビデとバテ・シェバは本来死刑に処せられるべきです。ところがダビデにはイスラエル国家を構築する任務を継続しなければなりません。またバテ・シェバは次期国王を出産するという任務が残されています。ならば死刑という量刑は誰かが肩代わりしなければならないのです。祭儀的律法によれば羊や牛の雄の初子を聖別するとあり、また族長(上に立つもの)が故意ではない罪を犯した場合の全焼の生贄は傷のない雄やぎとされています。つまり主なる神様は死罪に当たるダビデの罪の量刑を生まれてくる男の子に課したと言えるのです。まるで我々の罪を背負って十字架で死なれた方の様にです。実はこの経験こそ「受難のメシヤ」を預言した詩篇22篇を産み出すもとになっているのです。「わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか・・・」の台詞は正に死にゆくこの幼子からダビデに届いていた声に違いないのです。また「七日目にその子は死んだ」とありますが「七日間、その母親のそばに置き(申命記15:19)」が実現したものと思われます。死産ではなく7日間も生きて母親の傍に置かれていたのです。バテ・シェバにとっては短期間ですが我が子を愛でる為に主なる神様が用意してくださった時間ですがダビデにとっては暗黒の時間です。この暗黒の七日間はダビデに真の悔い改めをさせる為に与えられた主なる神様からの精神的圧迫の時間でだったのです。我が子の死を通して己の犯した大罪が如何に愚かで空しい者であったかを諭すための時間だったのです。「20,ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。」はとても奇異に思える行動ですが、「我が幼子による身代わりの死」という観点から考えると納得がいくのです。ダビデは幼子の死をもって罪が赦されたことを確信したのです。「23,私があの子のところに行くことはあっても」とダビデは死後の幼子の行先を知っているのです。幼子が亡くなることは一時的な悲しみではありますが、ダビデ契約で約束された永遠王国に幼子が迎え入れらるとも確信できたのです。「からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした」の行動はこの確信に基づく行動だったわけです。ところが21-22節にある様にダビデはこの「良さ名護の死は身代わりの死である」という真理を他人に語ることはできませんでした。「幼子の死が二人の大罪を超軽視した」という考えを王やけにすれば、臣下や民衆にとって「それはあまりにも虫が良すぎる考えだ」と思われてしまうからです。また「幼子の死」は他者に一時語って済まされる問題ではなく一生涯を掛けて背負っていくべきダビデにとっての十字架だったのです。