コリント人への手紙第二 11章

コリント人への手紙第二 11章
=本章の内容=
❶本物の使徒であることの弁明❷偽教師の活動内容➌報酬を受け取らない❹自活宣教➎パウロの経験
=ポイント聖句=しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。 (11:14・15)
=黙想の記録=●偽教師の教会内での活動の親の目的は、信徒からの搾取、自分の地位保全だけです。10章までに偽教師の活動の手の内を何度も暴露してきました。本章でパウロは、本物の教師とは何であるかを自らの体験をサンプルとして証明してみせるのです。パウロの語った体験は偽教師が最も忌避する内容でした。パウロの語ったのは、「華々しい宣教の実績(どれだけ高名な人々の前で、どれだけ沢山の人の前で話してきた)」や「高尚な聖書講解(高名な学者に師事し、様々な図書も出版してきた)」の類ではありませんでした。しかし、偽教師はこの分野が大得意です。唯一自慢できる部分なのです。大会堂で群衆を前に言葉巧みに語ることが大好きです。ちまちましたことは虫唾が走ることなのです。しかしパウロは何を語ったのでしょう?一言で言えば「艱難辛苦の人生」のことでした。ところがこれらも偽教師からすれば「パウロの歩みは失敗の連続。何一つ成功していなかった。」となるのです。価値観が初めから違うのです。
●現代の基督者でも「多くの信徒が集まる大集会の講談で説教できる」ことは何と名誉で輝かしいことでしょう。「どの教会でも多くのファンができるの」は何と爽快な事でしょう。それを「基督者の人生の着地点にできる」なら大満足でしょう。しかし、それではここに登場する偽教師と何ら変わらないのです。パウロ同様、「本物の教師」なら、「教会内のどの信徒より沢山の苦しみを通過している」はずなのです。もしそうでなければ、信徒の痛みを本当に分かるはずがないのです。本物の慰めと励ましのあるメッセージなど持っているはずがないのです。パウロは寡黙の人でした。さらに自分から困難に飛び込んでいく人でした。しかし、その壮絶な人生が無言の言葉として多くの人々を納得させていったのです。「光の御使い」とはこうした偽教師のことです。曇った霊性しかない人には「輝いて」見えるのです。あなたは如何ですか?