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コリント人への手紙第二 6章

コリント人への手紙第二 6章
=本章の内容=

❶神の恵みを伝える者の覚悟❷つり合わないくびき

=ポイント聖句=

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」 (6:17~18)

=黙想の記録=

●「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。(イザヤ49:8新改訳2017)を引用し、「救い」は一方的な神の恵みですが、期限付きであることを説明しています。偽教師たちからの攻撃に対し、パウロは自らも過酷な宣教生活の数々を証拠としてして述べています。「主から与えらたいのち」があるので、すべてを乗り越えることができたのです。福音宣教に対して最善の努力を積み、どんな試練に遭うことも厭わない覚悟がなければ、聴き手に受け止めてもらえないのは当たり前なのです。「偽預言者たちが語る福音」は、「単なるインテリジェンス(知性、教養)」の類で「魂の救い」からは程遠いものでした。「いのち」が感じられないのです。
●「彼らの中から出て行き、彼らと離れよ(6:17新改訳2017)」は、「この世界から隔絶された空間で生活すること」を意味していません。では何から分離するのでしょう。一言で言えば「この世の基準」からです。「この世の基準」とは、この世の教養や常識と言われるもの、慣習、伝承、道徳、楽しみ、そして流行・風潮のことです。
●「くびき」とは、牛、馬などの大型家畜で、馬車、牛車を引かせるときにまた畑を耕す際に使う、木製の横木のことです。「くびき」につながれるということは、くびきに繋がれて自分の自由が効かないだけでなく、常に同一方向、同一速度で前進させられる状態です。基督者は時折、「この世に同調していかなければ生活が成り立たない」という思いに駆られるのは、自分では認識できない、あるいは認識したくないこの世とのくびきを追っているからです。「父なる神の息子、娘」とされたこと以外、今更何を、この世に期待するのでしょうか。
●主にある兄弟姉妹に追いきれないくびきをかけようとする偽教師に注意するようにとの注意喚起ともとれるのです。教会が新たなくびきとなってはいけないのです。問題を起してしまった兄弟姉妹を「和を乱す者」として取り扱うのもまた同様なのです