サムエル記第一30章-3

サムエル記第一30章-3(20-31節)
=本章の内容=
❺分捕り物についてのいざこざ❻ユダ族への贈り物
=ポイント聖句=22,ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」
26,ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」
=黙想の記録=❺20-25節:分捕り物についてのいざこざ・・・「兵たちは家畜の先に立って導き」とありますが威風堂々と凱旋して来たかのような表現です。ところが山積みされた財産は先頭にあって厚く保護して帰るのに肝心な家族は二の次の様な表現なのです。『20,・・・「これはダビデの戦勝品だ」と言った。』とありますがこの「戦勝品」とはアマレク人の略奪隊が所有していた武器や装身具、衣服や装飾品、金銀や宝石の類、ラクダなどであり、ツィクラグの住民が所有していた物ばかりではありません。ところが一部の者達が戦いに参加しなかった200人を前にして「家族は返すが奪い取った財産は持ち帰る権利はない」と言って来たのです。これは可笑しな理屈です。なぜならべソル川に残留してしまった200人にもまた「奪われた財産」があったはずなのです。元に戻してあげるのは当然なのですが、彼らの言い分ではそれさへも許さないわけです。仮に30章-2の黙想の記録で述べた様にこの200人がダビデを排斥しようとしたグループであったとするのなら400人の部下たちがこう高飛車に要求するのも妥当な感じがします。もし残された200人が老人であり傷病のある者達であったとしたら温情を掛けるのはなおさらなのです。「22,・・・意地の悪い、よこしまな者たち」と表現していることから、この主張をしてきた者たちが物欲に目が眩んでしまった故の発言であったことが分かるのです。彼らの発言には「この分捕り物は家族を取り戻すために労苦した我々の当然の報酬ではないか。」さらに「論功行賞が優先するだろう。」(あるいはダビデを排斥しようとしたのはお前たちに権利はない。)の意味も、舌下にあったのです。しかし論功行賞で言うなら、今回の奪還作戦で一番の功労者はダビデ本人です。また自分を排斥しようとする人物に報酬を与えないと言えるのダビデを差し置いてはいないのです。つまり配分の権利はダビデにあるのです。しかしダビデはその権利を行使しないばかりか分捕り物については以下のように指示するのです。「23-24,・・・それはいけない。主がわれわれを守り助けてくださったおかげで、敵を打ち破れたのではないか。そんなことを言って、いったいだれが納得すると思っているのだ。戦いに行く者も、銃後の守りを固めた者も、平等に分け合おうではないか。(リビングバイブル)」つまりダビデが主張したのは「今回の一番の功労者は主なる神様である。この方の介入が随所に見られたではないか。この方の介入があったからこその勝利だったのだ。故に配分の権利は私達にはない。配分の権利は全て主なる神様にある。そしてこの方が望む分配方法は、戦いに行く者も、銃後の守りを固めた者も、平等に分け合うことなのだ。」この分かち合いの精神は民数記(民数記31:27)の時代からヨシュア記(ヨシュア22:8)の時代まで継続しています。ダビデはこの古き良き精神を継承したにすぎないのです。サウル王の様に私物化しようとする意欲はダビデには見当たらないのです。
❻26-31節:ユダ族への贈り物・・・『26,ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」』とあるように、ダビデはアマレク人の略奪隊から没収した戦勝品をダビデ一行が放浪している最中に面倒を見てくれたユダの全ての諸氏族にお礼として送るのです。勿論これは単なるお礼ではなく、ユダ族に帰還しユダ族に帰属することを意味しています。同時にアキシュ軍から離脱しペリシテ人に対峙することを宣言したのものです。この2年後にダビデは王位を継承し、即座にペリシテ軍と一戦を交えるのです。