サムエル記第一26章-2
サムエル記第一26章-2(13-35節)
=本章の内容=
❷アブネルへの忠告・サウルへの再弁明
=ポイント聖句=19,わが君、王様。どうか今、しもべのことばを聞いてください。もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが主であれば、主がささげ物を受け入れられますように。しかし、それが人によるのであれば、その人たちが主の前でのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです。
=黙想の記録=❷13-25節:アブネルへの忠告・サウルへの再弁明・・・ダビデは渓谷を挟んだ山頂からサウル軍全体に聞こえる様に話しかけますアブネルはサウル王の叔父にあたる人物で軍人です。ダビデがこのアブネルを呼びつけたのには訳があります。アブネルの生涯を見ると忠誠心よりも己の野心を遂行するために生きて来たような男です。サウルの死後はイシュ・ボシェテを王に擁立し(Ⅱサムエル2:8-10)実権を握っていましたが、自分の不品行をイシュ・ボシェテに攻められるや否やダビデ側に付こうと画策します(Ⅱサムエル3:6-21)。私の推測ですが、サウル軍の常備軍3000人を育成したのはアブネルであり意のままに操っていたことでしょう。この常備軍を行軍させるのも撤退させるのもアブネルの胸先三寸と思われるのです。またダビデをペリシテ軍討伐に行かせたのも、またダビデ追討をサウルに進言したのもアブネルに違いないのです。ダビデはサウル王の命に従って数々の戦いに赴き、イスラエルを守るために不眠不休さらに命がけで戦ってきたのです。しかし、今アブネルはサウル王一人も守れずに高いびきで眠り込んでいるのです。「サウル王の命を危険に晒したのはいったい誰なのか。職務怠慢の死罪に匹敵する大罪を犯したアブネルではないのか。」とアブネルを責めながらも実はサウルに自分の正義を訴えているのです。本来ならアブネルは自分を虚仮にしたのですから対岸に居るダビデに即攻撃を掛ける様に精鋭部隊に命じても良かったのです。が、それではサウルを差し置いて個人的遺恨を晴らす行動がバレバレになってしまう訳です。つまり総合司令官はアブネルでありサウルではないことを公言することになるのです。常備軍を失うことはアブネルの実権を失うことに等しいのです。兵達の疲労困憊ぶりを見ても今回もまた撤退すべきなのは当然なのです。しかし、今回撤退を決意させたのはポイント聖句であげたダビデの弁明に他なりません。このダビデの弁明をまとめてみます。
[1] もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが主であれば、主がささげ物を受け入れられますように。・・・ダビデに「敵意を抱かせているのは(主なる神様がサウルを試すためにその活動を許された)悪霊の仕業なのです。サウロ王自らがいけにえを捧げ神の赦しを求めその結果その悪霊を主なる神様の力によって追い払うようにしてください。・・・つまり「主なる神様の力によって心を正常に戻してください。」と訴えているのです。 [2]それが人によるのであれば、その人たちが主の前でのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです。・・・ダビデへの迫害が中傷者の虚偽の告発の故であるのなら、サウル王自らが主の前でその者達を呪いますように。その呪いとは(申命記28:36)にあるように異国の地に追い払われ異教の神々に仕える様になることです。たといその呪いの矛先が私ダビデ自身であっても。・・・つまり、「サウル王自身が手を下すのではなく主なる神様に裁きを委ねて欲しい」との訴えなのです。「21,私がばかだった。ああダビデ、帰って来なさい。もう、おまえを殺そうとはしないから。おまえは今日も、私を助けてくれたのだ。あさはかだった。ほんとうに、とんでもない間違いをしてしまった。(リビングバイブル)」とあります。これも私の推測ですが、「アブネルの職務怠慢」とダビデが常備軍3000人の前で指摘されたのにも拘わらず、アブネルはぐうの音も出なかったの見たのです。「今までのこの不毛な行動はサウル自身がアブネルに踊らされてきたことが要因である」とやっと認めることができるようになったのではないでしょうか。以降ダビデの間違った憶測でペリシテに逃げ込んだことも原因になってサウルはダビデを追跡しなくなります。またアブネルとの関係性も次第に悪くなっていくのです。「20,・・・山でしゃこ(うずら)を追うように、一匹の蚤狙って」とあります。山で鶉を追うのは王家の日頃の座興(ゲーム)のことを指しています。また一匹の蚤を狙うとは蚤の動きが素早くてなかなか捕まえることができないことを指しています。サウル王やアブネルがダビデを追跡する様子はダビデには彼らの座興に思えてくるのです。しかし座興と言えども自分は蚤の様に容易にはつぶせないと言葉を投げかけているのです。主なる神様に守られている平安がこうまで言わしめたものです。