サムエル記第一25章-3

サムエル記第一25章-3(36-44節)
=本章の内容=
➌ナバルの突然死・アビガイルを妻とする
=ポイント聖句=39,ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「主がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」ダビデは人を遣わして、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。
=黙想の記録=➌36-44節:ナバルの突然死・アビガイルを妻とする・・・「36,アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは、自分の家で王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上機嫌で、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。」本来この宴会は羊の毛刈りの季節に行われる使用人たちをもてなす為のはずです。しかしナバルはまるで異教徒の王の様に自分の快楽の為の饗宴を開いたのです。肉の人は人の幸せを考える心の余地がなくとどめることのできない肉欲を野放しにするだけなのです。大宴会の翌日アビガイルは事の次第をあからさまにします。水面下で進んでいたナバル一族の存亡の危機を聞かされ「37,彼は気を失って石のようになった。」とあります。ナバルは大言壮語する人物ですがその言動がもたらす結果を推測できるほどの聡明さに欠けていました。さらにアビガイルが問題を解決したにもかかわらず、ダビデの逆鱗はまだ収まっていないと思い込むのです。マウントを取りたがる人物が些細な出来事に躓く時必要以上に怖れを疑心暗鬼に陥るのに酷似しています。「38,十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」とありますが、ナバルには必要以上の恐怖心からくるストレスを解決する方法がないのです。その横暴な性格のゆえに心を許して相談する友がいないのです。ストレスは増すばかりです。恐らくナバルはストレスが要因する脳梗塞または心筋梗塞が発症し急死したものと思われます。ナバルの死はダビデが手を下したものではありません。「39,・・・主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」とダビデならずとも誰もがそう思う筈です。ここで思い出すのがイエス様の「愚かな金持ち(ルカ12:17-20)」や「金持ちとラザロ(ルカ16:19-31)」のたとえ話です。人間の傲慢さは命さへも維持できると思い込ませるのです。人の命は儚く脆いことを悟らなければならないのです。アビガイルの主なる神様への従順と聡明さ、さらにその容姿の美しさにダビデは心惹かれ、ミカルのいない今アビガイルに正式に求婚を申し込みます。夫が亡くなった今はダビデからの求婚を拒む理由がありません。『41,彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「さあ。このはしためは、ご主人様のしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」』とあるようにアビガイルは怖れ畏まりながら求婚を受け入れます。「しもべたちの足を足を洗う女奴隷」は奴隷の中でも最下級のものです。その程度の者であると自分を卑下しているのです。ここに主なる神様から賜った謙遜がアビガイルの内にあることが分かります。アビガイルの他にダビデはユダの丘の中にある小さな村(ヨシュア15:56)イズレエルのアヒノアムを妻にしました。その結婚の経緯は不明です。ミカルを含めるとダビデはこの時点で3人の妻を持っていたことになります。一夫多妻制は自然の法則にも神の法則にも合わない異教文化のものです。何らかの政略結婚の要素があったと思われるのです。一方都ではサウルがミカルをパルティに妻として与えてしまいます。これはミカルがダビデを逃がす時に口走ってしまった言い訳が原因でした。サウルはこの言い訳を利用してミカルとの婚姻関係を破棄し、ダビデとの関係の最終的な断絶を示す意思表示としてしまいました。例の洞窟での出来事でダビデとの関係性を修復する意志を持ち、ダビデを次期国王と認めているのならばこんな仕打ちする必要性はなかったのです。洞窟での言動が演技であったことを裏付けるものです。
=注目地名=地名①イズレエル(43):英語Jezreel;ヘブル語イェレエイル[神が種をまく]・・・ユダのネケブの都市
地名②ガリム(44):英語Gallim;ヘブル語ギャリム[温泉]・・・エルサレムの直ぐ北にある場所
=注目人名=人名①アヒノアム(43):英語Ahinoam;ヘブル語①アヒノアム[私の兄は喜んでいる]
人名②ライシュ(44):英語Laish;ヘブル語ライェシュ[ライオン]
人名③パルティ(44):英語Phalti;ヘブル語パルティ[救出,救助,釈放,解放]