サムエル記第一25章-2

サムエル記第一25章-2(13-35節)
=本章の内容=
❷アビガイルの機転
=ポイント聖句=22,もし私が明日の朝までに、あの男に属する者のうち小童一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。
4,イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。
[戦いの経緯⑤] =黙想の記録=❷13-35節:アビガイルの機転・・・ナダルはサウルへの密告を実行しようとしていたと思われます。『13,ダビデは部下に「各自、自分の剣を帯びよ」と命じた。それで、みな剣を身に帯びた。ダビデも剣を帯びた。』善意に対して悪意剝き出しで罵詈雑言を浴びせて来るナバルにダビデは心底怒りがこみ上げナバル一族の討伐に出かけようとします。ここで素朴な疑問が湧いてきます。この短絡的とも思えるダビデの行動は主なる神様の意向に果たして沿っているだろうかと言うことです。「ダビデは主なる神様の御心より好戦的な自分の性格を優先してしまう浅はかな人物」と思われはしないでしょうか。ダビデはナバルの罪を赦すべきでした。しかし一時の感情に確かに流され御心を尋ね求めることをしなかったのは確かです。そのままダビデが突っ走りナバル一族を滅ぼすのなら、それは「罪なき者達の血を流す」大きな大罪となるのです。ところがその過ちをアビガイルの若い従者とアビガイル自身が正すことになります。これこそが主なる神様の介入なのです。推測ですが、まずアビガイルの若い従者がダビデの若い従者と遭遇し、ナバルとの一件をつぶさに聞き出したことでしょう。アビガイルの若い従者は話を聞き、ただならぬ結末になると危機感を覚えたのです。これは若い従者同士が熱い友情で結ばれていたからこその顛末です。この友情が存在していなければ近い将来自分たちの命はないのです。その若い従者は大急ぎでアビガイルに報告に戻ります。「15-16,ダビデ様に仕える人たちは、とても私たちによくしてくれ、こちらが迷惑したことなど一度もありませんでした。実際、あの方々が昼も夜も防壁のようになって、私たちと羊を守ってくださったのです。おかげで、いっしょにいた間中、何も盗まれずにすみました。(リビングバイブル)」と、若い従者はダビデ一行との厚い交流の経緯を正直に説明します。さらに主人ナバルのダビデの若い従者への劣悪な取り扱いが目に余るものがあり、この為どんな結果が待っているかを主人ナバルは想像もできないと付け加えるのです。アビガイルは若い従者の進言に即座に反応します。「18,パン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個」とあるように、おびただしい量の食糧をしかも調理済みの食材を短時間で用意させダビデの元に行こうとします。これは私の推測ですが、夫ナバルには内緒で使用人たちと収穫の祭りを祝おうとしていたのではないでしょうか。これらの食糧はそのために用意されていた物とは言えないでしょうか。横暴な夫の陰でアビガイルは常に使用人との関係性を正しく保とうと努力していたと思われるのです。ダビデ一行がナバル一族を討伐するためにカルメルに向かっているちょうどその途上で出会うことができました。アビガイルは礼を尽くしてダビデに赦しを請います。アビガイルのダビデへの弁明は非常に聡明なものでした。以下に内容をまとめてみます。
[1]夫ナバルの愚かな行動を見ていないのだが、夫の犯した罪は自分に責任がある。 [2]ダビデの若い従者に対する横暴を赦してほしい [3]持参した食料をぜひ受け取り気持ちを穏やかにしてほしい [4]主なる神様はダビデを必ずイスラエル国王とされ、またその王位は歴代子孫に受け継がれていくと確信している。なぜなら今までのペリシテ人との戦における勝利は主なる神様がもたらしたものである。 [5]主なる神様が選ばれたダビデを害する者は主なる神様ご自身が報復なさると確信している。故にダビデ自身が手を下してナバル一族を滅ぼす必要はない。 [6]もし敢えてダビデ自身が理不尽な言動に対する復讐としてナバル一族を滅ぼすことがあれば、それは国王としての威信を削ぐ大きな汚点となる。理路整然とした言葉の節々に、アビガイルの主なる神様への従順な信仰が見えるのです。それはダビデが一時的に見えなくなっていた「主なる神の正義」を呼び覚ますことができました。自分を様々な危機から救ってくださったのは単衣に主なる神様の慈愛によるものであることを思い出していたからでしょう。ここで慈愛とは自分を害する者さへ赦すこととダビデは悟ったようです。ダビデはアビガイルに安全を約束して帰らせ、自らは帰宅の途に就きます。