サムエル記第一13章-2
サムエル記第一13章-2(6-23節)
=本章の内容=
❷サウルの失敗
=ポイント聖句=13,サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。
15,サムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行った。サウルが彼とともにいた兵を数えると、おおよそ六百人であった。
[事件の推移] [1]近衛兵3000人の選出:(サウルの陣)ミクマスとべテル(ヨナタンの陣)ギブア[2]ヨナタンがゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺す [3]サウルがギルガルでイスラエル兵を招集 [4]ペリシテ人がミクマスに陣を構える。戦車三万、騎兵六千、海辺の砂のごとき兵 [5]怖気ずくイスラエル兵。身の安全確保の為各所に隠れる。 [6]ガドやギルアデに逃亡する者がでる。兵の分散。 [7]サムエルの到着が遅れる。サウルが勝手に全焼のささげ物を献げてしまう。 [8]サウルがサムエルの叱責を受ける [9]ペリシテ人の陣営から三つの組に分かれて略奪隊が出て来た。 =黙想の記録=
❷6-9節:全焼のいけにえを献げたサウル・・・青年期に主に国王として召し出されたサウルですが息子ヨナタンが戦士となるここまでの彼の人生の記録はありません。サウルは3000人の常備軍を置くなど軍備増強に余念はなかったのにサムエルの様にイスラエル人の信仰を増強する教育には無頓着だったのです。若かりし頃に出会った預言者集団(サムエルの預言者学校の生徒)は彼のブレーンの中には一人もいなかったのでしょう。そもそもこのペリシテ人との戦闘を画策する上でもサウル自身が主に伺いを立てる様子は一切見られません。と言うことはこの戦闘行為はサウルの独断専行によるもので主なる神様からの言葉による確信から出て来たものとは言えないのです。「6-7,イスラエル人は敵のおびただしい軍勢を見るなり、すっかりおじけづいてしまい、先を争ってほら穴や茂みの中、岩の裂け目、それに地下の墓所や水ためにまでも隠れようとしました。中には、ヨルダン川を渡って、ガドやギルアデ地方まで逃げ延びようとする者も出ました。その間、サウルはギルガルにとどまっていましたが、従者たちは、どうなることかと恐怖に震えていました。(リビングバイブル)」とありますが、作者はこの常備軍の逃げ延びた先をわざと克明に記録したようです。断崖絶壁にある洞穴や墓所は味方にさへ容易に発見できない様な所ばかりだったからです。サウルの常備軍にはアンモン人を撃退した時の様な勇気や義侠心は一切見当たりません。これはサムエルに代わるサウル自身の霊的統率力が全く育っていなかったことを露呈しているものなのです。サウルはペリシテ人の圧倒的軍事力の差に慄き敵前逃亡する者が後を絶たない様子を見て、彼らの心を繋ぎとめるために行ったのが形ばかりの宗教儀式(全焼のささげ物を献げる行為)だったのです。ここで注意したい点があります。それはサウル自身の手でいけにえを献げたたという記述はどこにもありません。サムエル不在で時期尚早に献げられた全焼のいけにえは王に付き添っていた祭司アヒアの手によって行われた可能性は十分あります。
➌10-23節:サムエルの叱責の理由・・・「11-12,兵士たちは逃げ出そうとしておりましたし、あなたも約束どおりおいでになりません。ペリシテ人は、今にも飛びかからんばかりにミクマスで構えています。敵はすぐにも進撃してくるでしょう。なのに、まだ神様に助けを請うていません。とてもあなたを待ちきれませんでした。それでやむなく、自分でいけにえをささげてしまったのです。」とサウルが論(あげつら)ったことを箇条書きにすると以下の通りになります。
[1]味方は逃亡し敵が追い迫っている緊急事態であれば、その順番が多少異なっていても神の聖別と祝福なしに戦いに赴くことも良しとすべきではないか。 [2]サムエルが毎年の例祭に顔を出していれば、その都度サウルはサムエルに伺いを立てることができたはずだ。だから自分で画策しなければならなかったのだ。 [3]こんな緊急事態でもサムエルが命じたように7日間待機していた。定刻を守らなかったのはサムエル自身の怠慢ではないか。サムエルの叱責に対しのサウルの言葉は全くの正論の様に聞こえてきます。しかし明らかなことはサウルがこの危機的状態に際し熱烈な祈りをもって主なる神様に近づくことが一切なかったことなのです。サウルに与えられたのは早急な行動に出ることではなく「徹頭徹尾主の導きを待つ=遅延があったとしてもサムエルの到着を待つ」ことにあったのです。待つことの結果が如何なる劣悪な状況になってもなのです。ギデオンの戦いに32000人の兵は必要ありませんでした。最終的に使われたのは300人の兵です。サウルにはその時の2倍の兵士が残っていたのです。サウルはイスラエルの歴史から信仰的に学ぶことがなかったことになるのです。必要なのは主なる神様の言葉による確信なのです。残念ながらサウルはペリシテ人を完全討伐してイスラエル王国を一つにまとめ上げることが最終的にできませんでした、主なる神様がそれを許さなかったからです。サウルの画策した戦闘行為はかえってサウル一行を窮地に追い込みます。三方をペリシテ人が包囲してしまったのです。19-22節にイスラエル人がまともな武器を持っていなかったことが書かれています。農耕用具さへペリシテ人の技術力を必要としていたのです。さらにこの部分の表現は生活の主要部分に至るまでペリシテ人の影響を色濃く受けて来たことを表しています。つまりペリシテ人に歯向かうより隷属して生活していた方が安全かつ快適な生活が送れたはずなのです。「エジプトの生活の方がもっと快適だ」と言っていた輩と同じ言い方に聞こえてくるのです。しかし、「近代的快適な生活を希求できなくても主人であり養父である主なる神様に従う生活」を第一としなければならないのです。
=注目語句=語句①一ピム(21)・・・(約7グラム:一シェケルの約半分)
=注目地名=地名④オフラ(17):英語Ophrah;ヘブル語オフラー[小鹿]・・・ベテルの約8km東にあるベンジャミンの町
地名⑥シュアル(17):英語Shual;ヘブル語シュアール[ジャッカル]・・・おそらくミクマスの北にあるベンジャミン地区
地名⑦ベテ・ホロン(18):英語Bethhoron;ヘブル語ベイスホローン[空洞の家]・・・エフライムの2つの町
地名⑧ツェボイム(18):英語Zeboim;ヘブル語セボイーン[斑点のある]・・・エリコとエルサレムの間のベンジャミンの都市と周辺の谷