サムエル記第一12章-2
サムエル記第一12章-2(12:12-25)
=本章の内容=
❷誠の王である神様を無視したイスラエル➌民への警告
=ポイント聖句=22-23,主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。(新改訳2017)
22-23主は、ご自分の民を捨てて、その偉大なお名前を汚すようなことはなさらない。主はあなたがたを、特別な民として選んでくださったのではないか。そうすることが主のご意志だったのだ。私も、あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなどしない。これからも、良いこと正しいことを教え続けよう。(リビングバイブル)
❷12-15節:誠の王である神様を無視したイスラエル・・・『12,しかし、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めるのだ』と私に言った。』とあるように、アンモン人ナハシュが攻め込んできたことに怖れをなし救いを主なる神様に求めることをしないどころか、その方を完全に無視し、人間である国王を神様の代理にし異教徒の王の様にあてにならない人間の武力をもって戦いに挑むようサムエルに要求したのです。サウルの指揮のもとアンモン人ナハシュに勝利ができたのは事実です。しかしこれにも神様の配慮があったのです。ヤベシュ・ギルアデの長老たちの報告を聞き、ギブアの人々は深く同情し慟哭します。ベミヤミン族の悲劇(士師記19-21章)は同部族の子孫らに語り伝えられてきた暗黒の歴史です。この暗黒の歴史を共有していたからこそ心が激しく動いたのです。神様がベニヤミン族からサウルを選んだのはこの理由に寄るからなのです。サムエルはサウルを前に立たせ以下の様に警告します。「14-15,あなたがたが主を恐れかしこみ、主の命令を聞き、反抗的な態度を捨て、そして王とともに主に仕える道を歩むなら、すべてうまくいくだろう。 しかし、もし主の命令に逆らい、主に聞き従うことを拒むなら、主のさばきが下り、先祖たちの二の舞になるだろう。(リビングバイブル)」これは臣民である民だけでなくサウルにも届けたかったサムエルの最終メッセージだったのです。
➌16-25節:民への警告・・・通常、パレスチナでは4月末頃から10月まで乾季が続きます。ですから「小麦の刈り入れ」時期は6月の初め頃で雷雨など起こるはずがありません。「16-17,さあ、主のみわざを見なさい。だれでも知っているように、小麦を刈り取るこの時期には雨が降らない。しかし、私は主に祈って、今日、雷と雨を送っていただく。王を欲しがるのがどれほど愚かなことだったか思い知るだろう。」起こりえない時期に雷雨が起こったこともイスラエル人には驚天動地の出来事でしたが、怖れを抱いた理由は「収穫期を迎えた畑に雨が降る」ことにあります。仮に、この激しい雨がこのまま降り続けることになれば農作物には大打撃になるのです。『19,民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、主に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」』の民の告白は一見すると素直な悔い改めの様に思えますが、やはりここにも民の浅はかな信仰心が露呈してしまうのです。「私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」の言葉はサムエルが警告した言葉を鸚鵡(おうむ)返ししたにすぎないのです。彼らの目に主なる神様は「怒れる神」としか映っていないのです。災害が通り過ぎることだけを願うことだけで「王を欲しがる罪」はどこに原因があったのか理解していないのです。結局「彼らの反省」は太陽が顔をのぞかせればすぐに胡散霧消してしまったのです。これもまた主なる神様を異教の神々と同列に置いていることになるのです。「養父としての神」ではなく「災いの元凶」としか思っていないのです。
※16-25節は「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(第二コリント7:10)の御言葉を思い出させる事件でした。