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サムエル記第一6章-2

サムエル記第一6章-2(6:12-21)
=本章の内容=

❷雌牛の行く先➌金の腫物と金のねずみ❹ベテ・シェメシュに起こった災難

=ポイント聖句=

12,雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、その後について行った。

19,主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

[神の箱の移動先と事件(2)] [3]ベテ・シェメシュ・・・牛車到着。牛車の雌牛を全焼のささげ物として主に献げた。

[4]ベテ・シェメシュ・・・主の箱を覗いた為に70人が即死する。

[5] ベテ・シェメシュ・・・キルヤテ・エアリムの住民に主の箱の引き取りを要請した

=黙想の記録=

❷12-16節:雌牛の行く先・・・「7,今、一台の新しい車を用意し、くびきを付けたことのない、乳を飲ませている雌牛を二頭取り、雌牛を車につなぎ、その子牛は引き離して小屋に戻しなさい。」とありますが、本来牛にも帰巣本能があり、ましてや子牛を出産したばかりの雌牛ならなおさら牛舎に戻りたいはずです。「9,・・・もし行かないなら、神の手が私たちを打ったのではなく、私たちに偶然起こったことだと分かります。」とあるように、宗教指導者達(祭司や占い師)はこの雌牛が必ず戻ってくることを前提にして策を練っていたのです。雌牛が戻ることは「イスラエルに神はいない」の立証になるからです。また今回の難を避けるためには疫病の発生源である「ネズミ」を総動員で駆除すれば事態は良くなると踏んでいたのではないでしょうか。ところがここで異常事態が起こるのです。二頭の牛は牛舎に戻らず、「12,雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。」のです。ペリシテ人の領主たちも宗教指導者同様雌牛が必ず戻ってくると踏んでいたのです。それが意に反して雌牛はベテ・シェメシュにまっすぐに進んでいったのです。つまり「この災いを引き起こしたのはイスラエルの神」という答えになってしまったからです。領主たちは答え合わせをしてさっさと戻ればいいところをわざわざベテ・シェメシュまで雌牛のあとをついていくのです。常識が追いついていかなかった彼らは主の箱がベテ・シェメシュに到着した際住人がどんな行動を取るのかを見極めたかったからです。ペリシテ人の地で次々と疫病が起こった情報は恐らく隣接するベテ・シェメシュの住人にも伝わっていたでしょう。しかしここの住人は決してパニックに陥っていません。そればかりか神の箱の帰還を喜んでいるのです。「14-15,・・・人々は、車の木を割り、雌牛を全焼のささげ物として主に献げた。レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物の入っている鞍袋を降ろし、その大きな石の上に置いた。その日、ベテ・シェメシュの人たちは全焼のささげ物を献げ、いけにえを主に献げた。」ベテ・シェメシュの住人はユダ族の分割地にあったレビ人の町です。イスラエルの律法によれば神の箱は人が担ぐもので牛車で運ぶものではありません。住人は直ちにその場で雌牛を全焼のいけにえとします。この一連の流れを見て納得した領主は一先ず安堵しそしてエクロンに戻ります。イスラエルに戻ったからには塁が我が身に及ぶことはないと確信したからです。

➌17-18節:金の腫物と金のねずみ・・・そもそも償いの品物になぜ腫物やねずみの像を作り出す必要があったのでしょう。宗教指導者たちは情報収集に長けていた人物達ですから、疫病の原因がネズミから来ている(実際はネズミを介して運ばれるノミ)ことをすでに承知していたのです。腫物もねずみもイスラエル人の忌み嫌うものです。熱心なユダヤ教徒ならそのまま遺棄してしまうはずです。金そのものを渡せばいいのではという素朴な疑問が湧いてきませんか。実はこれにも邪悪な指導者(祭司たちと占い師たち)の目論見があったのではないでしょうか。これも私の想像ですが、牛車を牽引する雌牛同様、これらの金の品物も始めから自分たちに戻ると踏んでいたのです。もし手を加えない金そのものが元に戻ってきたら、その金を捻出した領主に変換されてしまうはずです。だから敢えて金に手を加え腫物やねずみを作らせることで宗教的意味合いを持たせ一般人に触らせないようにしたのです。そしてそれらが戻って来た時には自分たちに必ず処理が任せられるように画策したのです。また予定通り牛が戻って来れば疫病終息の仕方をすでに知っているので宗教指導者(祭司や占い師)の指揮の元、根絶作戦を指示できるので祭司や占い師の株は爆上がりするはずです。ねずみこそ疫病神であるとの印象操作でもあったのです。

❹19-21節:ベテ・シェメシュに起こった災難・・・神の箱がイスラエルにしかも自分たちの町に戻って来たことは確かに喜ばしいことです。しかし神の箱が戻った直後にベテ・シェメシュの住人は次々と律法に抵触することを平気で行っているのです。第一にベテ・シェメシュ人はレビ人ですが祭儀を行う資格はなく生贄を捧げることも神の箱を移動することも越権行為です。第二に主なる神に生贄を捧げられる場所はシロの天幕以外ありえないのでこれも律法に違反します。第三に「18,・・・主の箱を置いたアベルの大きな台」とは明らかではありませんが、偶像礼拝の場所であったのかもしれません。この大きな石の台が聖なるところなら、金でできた腫物やねずみを一緒に安置してはいけないのです。ところがこの三つの違反行為には死罪に当たる罰則規定はありません。ベテ・シェメシュの住人がその後厳罰を受けたのは「主の箱の中を見た」という行為でした。これは民数記4:15の死罪を伴った律法に抵触するのです。残念ながらベテ・シェメシュ人はレビ人であり神の御言葉に一番近い種族でしたが御言葉に全く無関心であったことは明らかなのです。この事件後はベテ・シェメシュ人は神の民としての自覚に欠けていることを悔い改めようとせず、キルヤテ・エアリムの住人に神の箱を押し付けるのです。