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列王記第一8章-5

2025年2月12日

列王記第一8章-5(8:31-40)
=本章の内容=

➌ソロモンの祈り(3)全体を俯瞰・具体的内容①②③④

=ポイント聖句=

38,だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、
39,あなたご自身が、御座が据えられた場所である天で聞いて、赦し、また、かなえてください。一人ひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。

=黙想の記録=

●ここでのソロモンの祈りはとても特徴的です。第一に文の構成です。「この宮で~祈る(誓う・立ち返る)なら~」と「なら」という言葉が7回も繰り返されます。日本語の「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形で、体言に付き、断定する意味を表します。ここでは「~なら」以前の文には「今後イスラエル人が陥るであろう状況とその原因」を具体的に挙げています。つまり、「何か不幸な出来事が起こった時は必ずこの宮に来なさい(あるいは宮に向きなさい)そして祈りなさい」と断定的な命令を下しているのです。また「~なら」以降の文には「主なる神がイスラエル人に対してどう御慈悲を掛けてくださるか」を具体的に提示した文が続いています。「提示」と表現しましたが、実はソロモンの「作文」ではなく「モーセ5書からの引用文」または「イスラエルの歴史や父ダビデ時代の史実からの引照」であることに気付くでしょう。第二に「天・御座が据えられた場所である天」と主なる神が異空間におられることを繰り返しています。人が作った偶像ではないと宣言しています。第三に「宮・私が御名のために建てたこの宮に向かって」と繰り返すことから「神殿の重要性」を殊更強調しています。「私が御名のために建てたこの宮」の言葉に「中央集権国家」をより具体的に強固にしていこうというソロモンの強い意志が感じられます。穿った言い方をすれば、ソロモンのこの祈りは偶発的に出てきたものではなく、この時のために練りに練ったものだったと言えるのです。以下その7つの項目を観察していきましょう。
①個人的な内容(31・32節)・・・新改訳2017で「のろいの誓いを立てるよう求められ」とありますが、リビングバイブルでは、『祭壇の前で「私は無実であることを主なる神の前に誓う」とい誓いをたてさせる』とより噛み砕いた翻訳になっています。イスラエル人同士の係争事件が発生し互いに譲歩することがなかった場合、祭壇の前で無実を誓わせ、もし無実なら何も起こらないが、有罪なら主なる神様が直接の罰を下されるようにとの内容です。この部分はレビ記26:14~16(有罪なら各種の重篤な病気になる)から引用しているのが分かります。
②敗戦した後の祈り(33・34節)・・・「敵」とは国外の異邦人をさしています。敗戦の理由が武力の優劣からではなくイスラエル人の戦闘方法や動機に罪があるから、あるいは平時において主なる神を蔑ろにする行為(偶像礼拝も含む)を常習的に行っていたからとソロモンは決定づけています。「あなたに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮であなたに祈り願うなら(新改訳2017)」「もし彼らが反省し、もう一度あなたをあがめるなら(リビングバイブル)」とあるように悔い改めを態度で示すことを条件に、主なる神は罪を赦し「先祖にお与えになった地に、彼らを帰らせて(新改訳2017)」くださることを宣言しています。「帰らせる」ということは一旦敵の捕虜となることを意味しています。確かにエジプトからカナンに連れ帰った史実があります。また父ダビデが何度となく経験してきたことです。この部分はレビ記26章や申命記28章から引用しているのが分かります。
③干ばつが起きた時(35・36節)・・・干ばつの原因はイスラエル人が罪を犯した(②同様主なる神を蔑ろにする行為(偶像礼拝も含む))結果とソロモンは断定しています。「祈り、御名をほめたたえ・・・罪から立ち返るなら(新改訳2017)」「’祈り、御名をたたえ、・・・罪を離れて立ち帰るなら(新共同訳)」の「立ち返る・御名をたたえる(御名を告白するまたが賞賛する)」とあるところから察すると偶像礼拝を問題視しているのかもしれません。干ばつによる飢饉が何度となくイスラエルを襲ったことがあり父ダビデはそれをサウル王家の罪の報いと断定したこともあります(2サムエル21:1)。
④飢饉・疫病・病害虫による作物への被害・敵の攻撃があった時(37~40節)・・・イスラエル各地で様々な災いが発生する場合を意味していますが、ここで重要なのが「~それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈る(8:38新改訳2017)」「~だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈る(8:38新共同訳)」という部分です。祈り手は神殿から距離を置いた個々別々の場所にいることを感じさせる表現です。つまり必ずしも神殿に来訪する必要はないと解釈できないでしょうか。偶像崇拝では「安置されている偶像のすぐ前で祈る」必要がありますが、イスラエルの神は偶像ではないのでその必要性はありません。しかし戦時中の天皇遥拝やイスラム教徒の様に特定の場所に向かって祈りを奉げるのもやはり「場所」という偶像とする偶像礼拝と言わざるを得ません。基督者が祈るのは天の父なる神様に向かってであり、時や場所を選びません。この部分もレビ記26章や申命記28章から引用しているのが分かります。

=注目聖句=

31,ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら(新改訳2017)
31,だれかが何か悪いことをして訴えられた時、この神殿の祭壇の前に立ち、自分はそのようなことはしなかったと誓うなら、 (リビングバイブル)
31, If any man trespass against his neighbour, and an oath be laid upon him to cause him to swear, and the oath come before thine altar in this house(KJV)【直訳】もし誰かが隣人に悪事を働き、彼に誓いを立てさせ、この家のあなたの祭壇の前に誓いに来るなら、次のようになります

列王記第一

Posted by kerneltender