列王記第一8章-2

列王記第一8章-2(8:9-11)
=本章の内容=
❷契約の箱の中・立ち込めた雲
=ポイント聖句=11,祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。
=黙想の記録=●9節には、マナの壺(出エジプト記16:33-34)、アロンの杖(民数記17:10)、律法の写し(申命記31:24-26)は契約の箱の中に無かったことが明記されています。あったのは2枚の石板でした。ヘブル9:4を見ると「幕屋の時代」にあったものが契約の箱と一緒ではなかったのです。アロンの杖(アーモンドの木)はモーセが天幕に入った時花を咲かせていたのでアロンは指導者として選出され、さらにモーセはこの杖を使ってエジプトに災いをもたらし紅海を渡るときにも利用されたものです。しかしモーセ時代から約400年も時間の経過があれば、アーモンドの木も壺の中のマナもそして羊皮紙に書き込まれた律法の写しの腐敗は避けられなかったのです。ホレブ山は火成岩で固いので風雨に晒されなければこの時代にも残っていたと思われます。ですから石板以外は消失していたとしても当然と言えるのです。「石板だけが残った」という事実はこうも解釈できます。つまり『「指導者やイスラエル人に示された奇跡」より「主なる神のことばが書かれた石板」の方がはるかに重要である。』ということです。
●ところでこれらの品物をどうやって確認したのでしょう。契約の蓋をあけて中身を確認したベテ・シェメシュの人々は50070人も打たれ殺されたのです(Ⅰサムエル6:19-20)。祭司だけが契約の箱を取り扱えるとありますから、至聖所に安置する前にソロモンが祭司に命じて中身を確認させたと思われるのです。この点を慎重に行ったのはソロモンが歴史に通じていたことを物語ってはいますが、恐怖心はあっても信仰心から出たこととは思えません。なぜなら契約の箱の中身を確認する必要性はないからです。
●主の宮を満たした雲はモーセが上ったホレブ山の時(出エジプト24:15-18)と幕屋が完成し初めての礼拝を捧げた時(出エジプト40:33-35)以来の出来事だったはずです。主が臨在される時に出現することをダビデは自らの歌の中で述べています。不思議に思えてくるのは、前述した様にこれだけ異教文化に染まった神殿であり政治色の濃いものであったにも拘わらず、主なる神様は自らの栄光をお示しくださっているということです。形式で始め形式で終わったまことに俗っぽい神殿建立の式典でまさかこんな事態が起こるなど誰一人予想していなかったのです。次の項で取り上げるソロモンの賛美にもその驚き様が表現されています。列王記作者が驚いたのもその点なのです。イエス様の初臨がそうであったように「信仰心の欠片」もない世人のところに敢えて臨在を示して下さるのは主なる神様の一方的な慈愛だったのです。列王記作者もソロモンの治世に不安を感じていましたがこの輝く雲の出現でどれだけ信仰心を鼓舞できたことでしょう。「11,祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。」とあるように、主なる神様の雲にさえぎられれば何事もできなくなるのです。にっちもさっちもいかない状況は見方を変えると主の臨在の場所なのかもしれません。
語句①雲(11):英語cloud、ヘブル語アナーン[雲塊(うんかい)、輝いた雲]