列王記第一3章-4
列王記第一3章-4(3:16-15)
=本章の内容=
❹ソロモンの裁き
=ポイント聖句=24-25,王が「剣をここに持って来なさい」と言ったので、剣が王の前に差し出された。王は言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。
26,すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。
26,すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。(新改訳2017)
26,Then the woman who was the real mother of the living child, and who loved him very much, cried out, “Oh no, my lord! Give her the child—please do not kill him!”But the other woman said, “All right, he will be neither yours nor mine; divide him between us!(NLT)【直訳】すると、生きている子供の本当の母親であり、彼を非常に愛していた女性が叫びました。「ああ、やめてください、王様! 「子供を彼女に与えてください!どうか殺さないでください!」しかし別の女は言った、「よいいですとも。この子はあなたのものでも私のものでもないのだから。その子を私たちの間で分けてください!
❹16-28節:ソロモンの裁き・・・そもそもなぜこんな末端の民事裁判をソロモンが引き受けたのか疑問に思えませんか。しかも登場する二人の女性はこともあろうに遊女(売春婦)なのです。律法は遊女の存在を認めていません。(レビ記19:29)。なのでこんな公の場所に遊女が自分の権利を主張するために法廷を開ける筈がありません。この二人が同じ家に住んでいるとの記述から、場合によると裕福なイスラエル人が娶っていた異国人の妻であった可能性があります。場合によるとソロモン同様エジプト人の女性だったかもしれません。つまり、ソロモンはエジプトのファラオの娘を娶ったことを正当化するために、自分の臣下にもエジプト人や異国の女性を娶らせていたかもしれないのです。この二人の女性を裕福なイスラエル人の異国人の妻と仮定して話を進めると以下のようになります。この二人はちょうどヤコブに嫁いだレアとラケルのように競って子供を持とうとしていたと思われるのです。子供をより多く持つことが夫の寵愛を受ける証となります。仮にその子供が長男であれば長子の権を我が子のものとでき将来生母として権利を行使できるのです。となるとこの事件は彼女たちにとって重大事となるのです。「18,私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。」との訴えにあるのは誕生の順番です。つまり長子の件は我が子にあるとの意味が舌下に含まれているのです。訴えを起こした最初の女性(A)は、三日の後に子供を産んだ女性(B)は不慮の事故か病気が原因で我が子が死んだので、女性Aの子供と取り違えたとの内容をソロモンに裁いて欲しいとのことなのです。日々富国強兵で頭がいっぱいのソロモンがこんな低レベルの係争にかかわるくらいですから、この訴えを起こした女性も訴えられた女性も異国の王女レベルだったのではないでしょうか。ですから下級裁判官に任せることができなかったのではないでしょうか。物語に戻りますが、双方とも生きている子供が自分の子供であると主張して平行線をたどります。すると『24-25, だれか、刀を持って来なさい。」刀を受け取った王は、こう言いました。「生きている赤ん坊を真っ二つにして、半分ずつ分けてやりなさい。」』と、ソロモンはとても残酷な裁定を下します。この切り分けて等分する裁定は、律法で規定されている家畜における紛争の解決方法なのです。「牛がほかの人の牛を傷つけて死なせた場合は、生きているほうの牛を売り、その代金と死んだ牛を、双方の持ち主が半分ずつ分ける。(出エジプト記21:35)リビングバイブル」。ソロモンの冷酷極まりない裁定に二人の母親は一瞬身震いしたはずです。ところが赤子の本当の母親はこの非情なソロモンの裁定に怯まずに子供の延命を必死で訴えるのです。純真無垢な赤子を家畜扱いする国王です。一旦決定したソロモン王の裁定を覆そうとするのは、国王の逆鱗に触れ母親も切り殺される可能性もあるのですが自分の命に代えても必死に延命を訴えるのです。一方赤子の命を取ってしまえば長子の権など発生しないのは分かりきっているはずなのに女性Aは「「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と主張するのです。いったいどうしてこんなことを言うのでしょう。女性Aはソロモン王は自分の厳命した裁定を絶対に覆さないと確信し諦めてしまったのです。しかし訴えた建前上ソロモン王の裁定を受け入れるのが得策と感じたのです。国王の裁定にけちをつければ国王の逆鱗に触れ今度は自分の命を取りかねないからです。そこでソロモンは二人の反応を見た後で赤子の本当の母親が誰なのかを告げるのです。確か並外れたソロモンの洞察力の高さを感じさせる名裁きに違いありません。しかし別の見方をすれば3章冒頭にある異国人ファラオの娘を娶ったことでイスラエル全土に異国人との混血が次々に誕生することを予感させるものでもあるのです。決してソロモンを褒め称えている文章とは思えなくなってくるのです。
=注目語句=語句①遊女(16):英語harlot(KJV), prostitute(NLT);ヘブル語ゾノフ[売春婦,娼婦,姦淫した者,誰とでも性交渉をするふしだらな者]・・・レビ記19:29では自分の娘を売春婦にすることを禁じている。申命記5:18では遊女(売春婦を含む)との姦淫を禁じている。この為古代イスラエルでは例外はあるもののほとんどが異国人である。ソロモンの裁きに登場する二人の遊女は恐らく異国人と思われる。列王記作者はイスラエルの衰亡の原因に言及しているので、異国人と婚姻することは遊女と関係を持つことと同様であると非難したかったのではなかろうか。
【追加説明】ソロモンの裁きと大岡裁きの違い
・・・日本には「ソロモンの裁き」と似た話で、講談の演目や脚本・小説など挙げられている「大岡政談(大岡裁き)」というものがあります。江戸中期の名奉行といわれた大岡忠助が下した人情味溢れる裁きのことですが、これは後世の人の全くの創作です。恐らく西洋文化の一つとしての聖書に影響を受けたものと思われます。大岡裁きでは、大岡は裁定を求める二人の母親に子供の手を引っ張らせ勝った方を実の親と認めるというストーリーとなっています。大岡は双方の母親に赤子の両手をそれぞれ引っ張りよう命じます。すると片方の母親は途中で引っ張られる痛さに泣き叫ぶ我が子を不憫に思い思わず手を離してしまうのです。力づくで赤子を手にした母親の方は「これで私が子供の母親だ」との裁定を下されると思い込んでいる。ところが大岡の裁定は、「手を離した方の親」を真の母とするのです。大岡は「真の母親なら泣く子を不憫に思うあまり手を離したはずだ」と最低の理由を言って聞かせ一件落着するというストーリーです。ところがソロモンの裁きは「赤子を剣で半分に切って双方に与えよ」という残酷なものです。真の母親は子供が死んでしまうより偽の母親の元でも生かしてほしいと子供の殺害に「待った」をかけるのです。双方とも「真の母親の愛情をもって真実を裁定する」という内容で一致しています。しかし大きな相違は大岡裁きが「赤子の養育権を決める」に対してソロモンの裁きは「赤子の所有権を決める」もので、赤子の生死に関係がないのです。