ヨハネの手紙第一 4章
ヨハネの手紙第一4章
=本章の内容=
❶霊を試す❷兄弟愛を試す
=ポイント聖句=愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(4:1)
=黙想の記録=●エホバの証人は「イエス様は大天使であり、神の創造物であって神ではない」と明らかにイエス様の神性を否定します。約2000年前のヨハネの書簡に記されている異端と同様、今でも脈々とこの思想が継続しているのは悪魔が現存している証拠に他なりません。ところが、ヨハネの時代でも、教会の中に潜入し、見分けのつかなかった霊の活動があったのです。「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」(4:5)とありますが、この世の者という言葉には、世俗的肉欲的生活に溺れている者という意味もありますが、この世の常識、水準、基準で活動する人の意味も含まれます。つまり、この世の枠の中に収めたいと願う人々なのです。ところが、気をつけなければならないのは、この世の常識基準を超えた出来事を超自然現象あるいは超能力として弄(もてあそ)んでいる人々もこの世の者に違いないのです。
●「癒しができる、未来を占える、予言ができる」など、あたかも特殊能力を身につけたと言っている人々のことで、その根底には他者からの優越感が存在します。悪く言えば「選民意識」です。ヨハネの時代にもこうした人々が教会に潜入し、教会を混乱させました。こうした人々の中での卓越した能力のある人物の言葉は聖書の言葉に匹敵し、この人物をあたかも神の様に崇めているのですが、当事者達はこの異様な状況に陶酔し、自分を見失っているのです。このグループの人達はリーダーの様に頂点を目指すことはあっても、兄弟姉妹に仕える為に下に向かう気持ちは片鱗もありません。このグループの人々は、他人の揚げ足を取り、短気ですぐにマウントと取りたがりますが、傾聴の為に時間を費やすことが嫌いです。ヨハネが危惧したのは明らかに異端と分かる人々と同時に、区別し難いこうした選民意識を持つ人々でもあったのです。
●本章でヨハネは「愛し合う」ことを何度も繰り返しています。ヨハネの語る「愛」は観念ではなく実践です。心の持ち方ではなく行動です。同情は愛の始まりに過ぎませんが、自分の枠を超えてしまうと停止したり放棄してしまう様では愛とは呼べません。「ここまでやってあげてるのに、なぜこの人は?」と言う感情が湧き起こるとすれば、それは同情の域を超えていないのです。愛は多くの実践を積むことにより、その真価が現れてくるものです。多くの愛の実践を通過しない基督者ほど愛を声高に叫ぶ様です。残念ですが、そうした方々の言う薄っぺらな愛は、この世の人々でも見ぬくことができてしまうのです。