ヨハネの手紙第一 3章

ヨハネの手紙第一3章
=本章の内容=

❶神の子としての立場❷罪を犯すこと➌兄弟を愛すること

=ポイント聖句=

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(3:21~23)

=黙想の記録=

●本章でヨハネはカインを登場させます。カインはアベルと兄弟です。幼少期には仲良く遊んでいたかもしれません。ところが成人すると、彼らの眼に映る「神様のお姿」は全く異なるものになっていました。ヨハネは本章で「神から生まれた者」と「悪いものから出た者」の代表例をこのカインの弟殺し事件を使って説明しています。ヨハネがカインを悪者呼ばわりする理由はなんでしょう。
●アベルは羊の初子を捧げました。これは動物を殺し生贄とする残酷な行為です。アダムとイブは創世記を見る限りこんな残虐行為をしたとは記録されていません。ところで、この残虐な行為は初めに神様がなさったものです。ですから、アベルにとっては神様がなさった行為を倣ったに過ぎないと言えるのです。しかも神様がこの行為を強要しているわけでも無いのです。アベル自らの意志で行ったものです。
●しかし、愛情を注いでおられるご自分の創造物を犠牲にする行為に神様が心が痛めない筈がないのです。この犠牲を払うまでして父母のことを気に掛ける神様の心をアベルは理解していました。可愛いがっていた羊の初子を殺すことはアベルにとっても心が痛まないわけが無いのです。神様に倣い、愛していた子羊を捧げることで、アベルは神様の心痛を追体験したとは言えないでしょうか。
●一方カインは、呪われてしまった地を汗水流して耕し、命を掛けてやっとの思いで生産した穀物を捧げます。しかもこの労働は父母の神への造反の結果、「回って来たツケ」なのです。自分には関係ないことなのです。穀物を育てる事は、父母から踏襲したものです。こうした意味でいうなら、カインは親の言い付けをよく守る、大変親孝行な息子とは言えないでしょうか。こんな品行方正なカインが、神への捧げ物を巡って、妬みの為に弟を殺害してしまうのです。しかし、もう少し考えてほしいのです。妬みの増幅が、弟アベルを殺害する要因となるのでしょうか。
●神様の前に立つ時、アベルは罪という負の遺伝子、つまり、父母由来の神への反抗心が心に存在する事を自覚していました。過ぎ去った日々に犯して来た数々の悪い思いや行いを、神様が到底受け入れられる筈がないという自覚です。ところが彼は父母から聞かされていた「神様自らが実行した贖罪の方法」を信じていたのです。「贖罪する事」が全てに優先する神への奉納物と理解していたのです。神様と心を通わす道はこれであると信じて行動したのです。更に言うならアベルは神様の赦しと哀れみの心が分かっていたのです。
●一方カインはと言えば、彼にはアベルが抱いていた罪意識は初めから欠如していたのです。ですから何かを奉納する事に贖罪の意識は一欠片もありませんでした。カインにとって神は恐怖の存在としか映っていなかったのです。禍がこれ以上拡大しない為に、なだめの供え物を献上することが最良の策としか思えなかったのです。言うならば、カインにとって「神様は災いをもたらす人生の敵」だったのです。悪魔は「災害は全て神が元凶で起こされるもので、それには容赦がない。神は元から人間に関心が無い。懸命に生きている人間のその努力をも否定する冷酷非情な存在なのだ。」と、あたかも「神が人間にとっての敵である」かの様に、絶えず刷り込んでいるのです。カインはこの悪魔の側に立ってしまったのです。その証拠に、カインはアベルを殺害するのです。なぜでしょう?妬みの感情が限界点に達したからでしょうか。いいえ、そんな感情によるものではないのです。アベルを殺害するという行為は、アベルのこの尊い信仰の継承を絶つために他ならないのです。アベルが生きていればその信仰が脈々と受け継がれていってしまうからです。悪魔がイエス様を十字架で殺害した動機と同じなのです。この点でカインは悪魔に組する者となりました。ところが、アベルの信仰は、その後に生まれた弟セツに受け継がれ、さらにその子孫はその信仰を育んでいくのです。因みにノアはセツの家系です。
●日頃神様など敢えて意識しないでいる人たちも一旦災いが襲ってくると、怖じ惑うだけでなく、神を無視し神を呪う事さへするのはカインの遺伝子つまり悪魔の遺伝子があるからなのです。
●神様の味方でない者に、どうして神様は味方するでしょうか。この世に執着している人が、どうして神の国を味わうことができるでしょうか。日常的に肉欲に溺れ、そこから発生する罪を容認しておきながら、どうして神様の清めを経験できるでしょうか。更に対人関係においても、兄弟愛を示さない基督者がどうして兄弟愛を期待できるでしょうか。神の前に出て大胆に願うことができるのは以上のように課題をクリアした時なのです。棚から牡丹餅はありません。