コリント人への手紙第一 15章

コリント人への手紙第一15章
=本章の内容=

❶活の事実❷代理洗礼の矛盾➌殉教者の望みである復活❹御霊に属するからだ➎終わりのラッパ

=ポイント聖句=

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 (15:52)

=黙想の記録=

●本章は一貫して「復活」について語っています。あくまでも、一説によれば、コリント教会には「復活を信じない」人たちがいて、この人たちが、救いを知らずに死んだ者たちの為に「代理洗礼」を行なっていたというのです。仏教でいえば、死者が極楽浄土に往生するために僧侶が読経(英語:Sutra Recitation)すると言った類でしょうか。こうなると生前どんな悪行を積んだ人も「代理洗礼」によって救われるなどというとんでもない原理が生まれてしまうことになるのです。①パウロを含め当時の人々の中にイエス様の復活の目撃者がいること②殉教者は復活に望みを置いていること③血肉の体は天国に行けないこと④必ず再臨があることの説明を通じて、パウロは何度も復活について説明しています。
●イスラム教では、「生前の肉体と結びついて再生する」という考え方があり、火葬はタブーです。釈迦の教える原始仏教には復活どころか「浄土」という場所も「救世主なる神」の概念すらありませんでした。ところが、東アジアに伝来したキリスト教に遭遇し、「大日如来」や「阿弥陀仏」という神的存在を作り出し、ついでに「浄土」も作り出してしまうのです。日本に伝わった仏教はそもそも混合・合成宗教で本物とは言い難いのです。人間の作り出す宗教は所詮矛盾と限界があるのです。
●基督者の望み。それは、聖書に記述されている「再臨」と「復活」です。歴史的根拠・科学的根拠により聖書の信憑性が確証されているのですから、これらは「単なる思い込み」ではないのです。「再臨」と「復活」という目前に迫った事件に遭遇する特権を現在の私たちが経験するやもしれません。「終わりのラッパ」ってどんなものでしょう。