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コリント人への手紙第一 12章

コリント人への手紙第一 12章
=本章の内容=

❶御霊による告白❷御霊と賜物➌身体に譬えられる教会

=ポイント聖句=

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(12:26~27)

=黙想の記録=

●「御霊を飲む者とされた」は、英語で「made to drink into one Spirit(ひとつの聖霊を飲み込むようにされた)」ギリシャ語では「potizō(パティゾウ)(飲み物を与える、心を飽和させる)」となっています。御霊によって与えられるものが九つあります。それは「知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力」この中で「預言と異言」については13章・14章でその意義と教会での取り上げ方が説明されています。この中で「預言はすたれ、異言はやむ」と書かれています。また「異言は不信者のためのしるし」と書かれています。ところが同じ14章には「これらを禁じてはならない」とも書いてあります。これらには諸説あるようですが、是非それぞれの確信に従ってください。
●どんな場合でもそれらの賜物は他者と自分を区別する道具ではありません。教会の中で兄弟姉妹に仕えるための道具にしかすぎないのです。使わない真っ白な雑巾より、汚れた雑巾の方が、よく用いられてきた証拠なのです。賜物は他者の汚れをわが身に移すためのものでもあるのです。あなたは教会の中で汚れた雑巾になっていますか?それとも・・・。
●ところで、あるご兄弟が「知的障害者もいやしたことがある。私ならあなたの息子を癒すことができる。それは悪霊に憑かれている状況なのだから。」とアドバイスをくださった方がいたのですが、お断りしました。また、ある姉妹が「自閉症が改善される奇跡を見た。解放された。」と不特定多数の方々にネットで配信されるのを聞いたことがあります。こうした兄弟姉妹のお言葉は決して悪気があってのことではないとは思います。しかし、どちらの場合も「障害者とどう向き合うかに対する知識の欠如」から来ていると言わざるを得ません。
●障害は病気や事故が原因ではありませんし、また悪霊の仕業ではないと断言できます。また「障害が癒される」ことだけが「神の栄光を表す」ことではありません。それは「重篤な病気が癒されないまま天に召される兄弟姉妹」がおられることや「消し去ることのできない親子関係や兄弟関係をもっておられる兄弟姉妹」と同様だと思っていただけませんか。「そんな辛い状況から解放されたい。癒されたい。」という気持ちが、かえって、現実を受け入れられないものにし、向き合うことからも逃避させること」でもあるのです。
●基督者の場合、こうした家族がいることが、「人生の損失」ではなく、「神様のご愛をより体験できる特権」であることを知ってほしいのです。途方に暮れるような山積した課題を突き付けられているのがこうした基督者でもあるわけですが。「山よ動け」の信仰は、こうした方々こそが体得できることでもあるのです。神様のテストはふるい落とすものではなく、だれもが及第点をとれるようになっています。他者が見て過酷な状況にいると思われる兄弟姉妹を通し、かえって励ましや慰めを頂けるのは、神様の深い配慮なのです。